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『稲盛和夫一日一言』 12月27日

 こんにちは!『稲盛和夫一日一言』 12月27日(水)は、「人生の勲章」です。

ポイント:私たちは、魂だけを携えて一人で来世へ旅立たなくてはならない。より美しくなった魂、心の輝きだけが人生の勲章。

 2001年発刊の『稲盛和夫の哲学 人は何のために生きるのか』(稲盛和夫著 PHP研究所)の中で、本当の意味での人生の目的について、稲盛名誉会長は次のように述べられています。

 「人は罪の子である」とも、「人間はもっと価値のある存在である」ともいわれます。ふたつの考え方は相容れないもののように感じるかもしれませんが、決してそうではありません。

 仏教では、罪は煩悩(ぼんのう)が原因で、そこには六大煩悩、「貪(とん)」「瞋(じん)」「癡(ち)」「慢(まん)」「疑(ぎ)」「見(けん)」があるとされています。

 「貪」は何でもわがものにしようとする貪欲な心、「瞋」は自分勝手な振る舞いで怒り出すような浅ましい心、「癡」とは無常である世の中を「変わらないもの」と考え、思いとおりにならないことに対して愚痴を漏らし、不平不満を鳴らす、仏の智慧を知らない心、「慢」とは傲岸不遜(ごうがんふそん)な心、「疑」とはお釈迦様が説く真理を疑う心、「見」とは物事を悪く見てしまう心です。この中で特に「貪」「瞋」「癡」の三つは、人間がもつ煩悩の根源的なものとして「三毒(さんどく)」といわれています。

 お釈迦様のいう六大煩悩は、人間がもともと生きるためにもっているもので、それがなければ肉体を維持できません。つまり、もともと煩悩とは、肉体をもっている人間が生きていくために、創造主が備えてくれた知恵なのですが、そうした煩悩に創造主から与えられた「自由」が加わることによって悪をつくり出すことがあります。

 現世とは、そうした悪をつくり出す人間が心を浄化するための修行の場であり、修行によって人間性を高め、人格をつくっていくのが人生の目的です。
 ところが、煩悩をもち、自由をもつために、人間は放っておいたら極悪非道に堕してしまいます。そうならずに、心を高め菩薩(ぼさつ)になるための方法として、お釈迦様は「六波羅蜜(ろくはらみつ)」という修行の道を示されました。

 お釈迦様は「悟りを開くまで行きなさい」といわれているのですが、悟りの境地は無限大で、一気に悟りまで行ける人は何百万人に一人しかいないでしょう。
 だからといって、「どうせ悟りが開けないなら、修行などしなくていいではないか」と思ったら大間違いです。私なりの解釈では、お釈迦様は人間の心が少しでもきれいになることを望んでおられます。したがって、死ぬまでのあいだに少しずつでも心をきれいにしていくことが大切なのです。

 もっと具体的にいえば、自分が死ぬときに、「あの人の人柄はよかった」「あの人はいい人だった」とみんなから慕われるような人間になることを、人生の目標、目的に据えるべきではないでしょうか。

 事業で成功する、学問で博士号をとる、組織で高い地位に就くなどということはあまり価値がないことです。また、そう思うと気が楽になります。
 貧乏であっても、病気をしていても、自分の心を鎮め、少しでも高い人間性をつくっていこうと努めることは、誰にでもできるはずです。

 死ぬまでにどれだけ人格、品性を高めることができたのか、そのことだけが人生の勲章なのです。(要約)

 そもそも「魂」というものが存在するのかどうか。名誉会長は同著の中で、「肉体が死んだとき、魂、あるいは意識体、が肉体から分離する。そして、魂、意識体は肉体とともに滅んでしまうのではなく、肉体とは別の次元で存在しているような気がする」と書かれています。

 同著の前書きにおいて、名誉会長は次のように説かれています。

 いま私たちに必要なことは、「人間は何のために生きるのか」という根本的な問いに真正面から対峙し、人間としてもっともベーシックな哲学、人生観を確立することだと考えます。

 たしかに、現在の自由な社会では、どのような考え方をもとうとも自由であり、それは尊重されなければならないでしょう。
 しかし、人生に対する考え方により、人生の結果が大きく変わることを私たちは理解しなくてはなりません。苦労を厭(いと)い、人生をおもしろおかしく過ごそうとした人や、世をすね、不平不満をもち、一生を過ごした人と、高い目標をもち、それに向かって明るく前向きに一生懸命努力を重ねてきた人の人生のあいだには、大きな差が生じてしまうのです。

 つまり、「素晴らしい人生を送る」にはそれにふさわしい考え方があり、それはどのようなものなのかということを、私たちは知る必要があると思うのです。(要約)

 私たちは、別の誰かの人生を生きることはできないので、自分の人生は自分でつくっていくしかありません。何が素晴らしい人生なのか、そうしたことは考えたこともない、という方も少なくないかもしれませんが、自分が死んでいくときに、「自分の人生はいい人生だった」、あるいは「この人はいい人生を歩んだね」とまわりの人に思ってもらえるかどうか。

 最期の最後まで解の出ない問いかけではありますが、常に心のどこかに置いておいて、自身の言動を振り返るきっかけにしなければと思っています。


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