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使えない理科を勉強する意味とは

先生ぇ〜理科って使わなくないですかぁ〜?


「理科を勉強するとこのようないいことがあります。」
義務教育を9年間も受ければ、どこかのタイミングでこのようなセリフを聞くだろう。より具体的には
「電気回路を学ぶことで、電化製品を正しく使うことができる。」
「化学物質の名前が分かれば、製品の安全性を吟味することができる。」
などのセリフが頻繁に言われる気がする。理科が苦手な人からすれば、全ての人間がそれをする必要がないと感じるだろう。理科教員免許を所持している私ですらそう思う。

実際に電子機器が高度化した現在では、電気系統をいじることはまずない。知識がなくとも安全に使用できるようになっている。洗剤や化粧品の裏を見ても塩化ベンジル…とか、…スルファニルアミドとか聞いたこともない物質ばかりが並んでいる。仮にそれらの分子構造が分かったとしても体内でどのように作用するかは、医療系の人間でない限り分からないだろう。それならば、いっそ製品の安全性を規定する国の法律でも勉強した方が安心できるとまで思う。

では、理科を勉強する意味がないかというと、それがまた難しい。それは誰を主語に置くかに大きく依存しているからだ。そこで、本記事では「理科を学ぶ意味とは何か」を議論してみよう。



義務教育は何のため?


そもそも、義務教育の制度は法律により定められている。法律で強制してまで国家が国民に教育を受けさせるのにはきちんとした理由があり、本章ではそれを読み解く。そもそも、教育に関する基本的な規則は教育基本法[1]により定められている。

教育基本法
第一章 教育の目的及び理念(教育の目的)
第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

国が法律によって強制してまで国民に教育を受けさせるのにはきちんとした理由がある。それは「国家形成」である。その根拠は上に示した教育基本法の条文に含まれる「国家及び社会の形成者として」という言い回しに由来する。この表現は学校教育法にも幾度となく見られる。このことから国民は教育を受けることにより国家の構成員となることが強く期待されていると解釈できる。逆説的に言えば個人が利益を得ることを目的としていないと言える。


なぜ理科を勉強させたい?


ここまでで教育に対する一般論を説明してきた。ここから各論の議論に入る。この節では小学校の理科を取り上げる。小学校の理科はどのような目的で学ばせているのだろうか。学校教育法[2]から理科教育に関連する文章を抜粋した。

学校教育法
第二章 小学校
第十八条 小学校における教育については、前条の目的を実現するために、左の各号に掲げる目標の達成に努めなければならない。
五 日常生活に必要な数量的な関係を、正しく理解し、処理する能力を養うこと。
六 日常生活における自然現象を科学的に観察し、処理する能力を養うこと。

この条文には「…する能力を養うこと。」と明確に記されている。この目標を達成するためにこの国では理科が選ばれている。他の多くの国でも似たようなものだろう。大事なことは理科を学ぶといいことがあることではなくて、この目標達成のための手段として理科が選ばれたということだ。「理科を学ぶとこのようないいことがある。」という主張は理科を学ぶ前提を固定したときの話で、理科でなければならないことの説明ではない。この理屈は手段と目的が倒錯しており説得力に欠ける。例えば製品の安全性を吟味するためであれば、法学でも代替可能であることを冒頭で述べた。条文には理科を学びなさいとは書かれていない。学校教育法が掲げる目標を達成するために理科が選ばれたのだ。ただし、その能力を身につけさせるための理由が書かれていないので、この点は私の解釈で補足する。

仮に理科教育がなされない社会を想像してみる。そのような社会では国民に知識がないばかりに事実無根のデマに煽動されていることだろう。「水道水に含まれる塩素によって国民は洗脳されている。」などと言われれば、国はインフラを整備することすらできなくなる。それでは国家は持続できない。英国出身のSF作家アーサー・C・クラーク氏の言葉に以下のようなものがある。

十分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない。

本来の意味とは異なるが、仮に国民の科学に対する理解が低下すれば、相対的に科学が魔術に見えてくるだろう。逆説的に言えば、理科教育の目的は国民に共通の常識を持たせるためと言える。理科を使うか否かは論点ではなく、理科の知識が使われたもので溢れた社会へ馴染むことにその目的がある。いわゆるリテラシーというものだ。

科学リテラシーを持たせることの意味についてさらに深掘りしてみる。科学教育には、上で述べた「デマへの対抗」のような消極的な理由だけでなく積極的な理由もある。それは国が研究力を維持・発展させるためだ。これは以前の記事でも描いたことだが、研究を行うことは国民を含む国家を守ることになると私は考えている。国家が研究や産業によって豊かになるためには基礎研究が必須である。国民は国が行う予算配分の意義を理解し判断しなければならない。また、それを実現させるためには国民に基本的な科学的知識や論理的思考力が備わっていることが前提で、理科教育はその形成を目指していると私は考えている。これは上の条文に続く、第三章 中学校からも読み取ることができる。

第三章 中学校
第三十五条 中学校は、小学校における教育の基礎の上に、心身の発達に応じて、中等普通教育を施すことを目的とする。
第三十六条 中学校における教育については、前条の目的を実現するために、左の各号に掲げる目標の達成に努めなければならない。
一 小学校における教育の目標をなお充分に達成して、国家及び社会の形成者として必要な資質を養うこと。
二 社会に必要な職業についての基礎的な知識と技能、勤労を重んずる態度及び個性に応じて将来の進路を選択する能力を養うこと。
三 学校内外における社会的活動を促進し、その感情を正しく導き、公正な判断力を養うこと。

特に第三十六条 三からは積極的な政治参加までは求めていなくとも、同様の意味を汲み取ることができる。より具体的な議論のため小学校学習指導要領[3]を引用する。

第2章 理科の目標及び内容
小学校理科の教科の目標は,以下のとおりである。
自然に親しみ,理科の見方・考え方を働かせ,見通しをもって観察,実験を行うことなどを通して,自然の事物・現象についての問題を科学的に解決するために必要な資質・能力を次のとおり育成することを目指す。
(1) 自然の事物・現象についての理解を図り,観察,実験などに関する基本的な技能を身に付けるようにする。
(2) 観察,実験などを行い,問題解決の力を養う。
(3) 自然を愛する心情や主体的に問題解決しようとする態度を養う。

私が強調した箇所は「自然に親しみ」の部分である。国家が発展するためには、力が必要である。ある国は軍事力かもしれないし,ある国は宗教による団結力かもしれない。我が国では科学力によって目的の達成を図っている側面がある。税金を投じて研究や産業を振興するためには、国民の正しい理解と判断が必要である。そこで注目する点が「自然に親しむ」心である。教育を通じ科学に対する肯定的な世論が育まれれば、科学立国の実現がより容易になる。(ここで用いた肯定的という言葉は盲信的な科学信仰を意味しない。)

科学は今でこそその価値が理解されているが、いつの時代もそうだったわけではない。天体運動の法則を見つけ出したケプラーも元は貴族に雇われて研究していた。現在では研究の科学的意義が認められているが、一般市民に科学教育が広まっていなかった当時は金持ちの道楽としか思われなかっただろう。もし現代においても多くの国民にそのような価値観が残っていれば、彼らは国が税金を投じて研究を推進することに反対するだろう。そうなると日本は国力の一端を担う科学力を失うわけだから、当然衰退してしまう。

国民が多くの知識を有していることに越したことはない。しかしそれらを忘れたとしても「なんとなく科学が大事であると思う」感覚が残れば理科教育は成功したことになる。そしてあわよくば国民が「公正な判断」を行ってくれれば最大の成功と言えるだろう。この理念は究極的には民主主義を保つために存在していると思える。理科という道具を持ってして、正しく国家を運営せんとする意思が垣間見えないだろうか。


大事なことに限って生徒に伝わらない


理科を学ぶ意味は「個人の役に立つから」でないことを説明してきた。以上の議論を踏まえて、冒頭のセリフに戻ろう。学生としても教育実習生としても理科に触れてきた私からすると、このセリフは納得できる部分とそうでない部分が半分ずつある。納得できない理由は、先ほども述べたように理科教育は実学を目的としていないからだ。納得できる理由は、そうでも言わないと生徒が話を聞いてくれないからだ。理科は好き嫌いが分かれる教科であり、好きな生徒は齧り付くように教材を凝視し、これでもかというほど質問を投げつける。一方、嫌いな生徒は早く授業が終わることを願い、先生が口癖を言う回数でも数えていることだろう。必ずしも全員が興味を持っていないことなど教員は百も承知だ。それでも最低限の内容は教えなければならないから、理科嫌いな生徒を少しでも振り向かせるために例のセリフを捻り出すのだろう。

ただし、教育の理念をここまで理解している教員は多くないように感じる。ここからは私の完全な偏見であるが、理科の教員になる人で理科が嫌いな人はほとんどいない。教員の多くは日常生活との関連に知的な興奮を覚え勉強をしてきたことだろう。そのため彼らは理科が実用的であると信じて疑っていない。そして生徒にも同じように教えればきっと楽しさを理解してくれると考えるのだろう。しかし残念ながら、苦手意識で武装した生徒らにその言葉は通じない。私はこのことを教育実習を通じて残酷なまでに感じた。

ただ一方で、私はそのような教員を馬鹿にするつもりは一切ない。なぜなら私自身が大体となるアイデアを持ち合わせていないからだ。これまで述べてきた私の主張を生徒に伝えて全員に納得してもらった上で授業をすることなど不可能である。そうなるとその他の手段で生徒を参加させる必要が出てくるのだが、それは別の機会を設けて説明することにする。


実は国語も英語も全部そう


私は理科教員免許しかもっていないので、理科についてしか話さなかった。しかしながら、この主張は他教科にも演繹することができると私は思う。古典も英語も「使うために勉強させてます」なんて文章は法律のどこにも書かれていない。ましてや、やれプログラミングだ、やれスピーキングだなど国民の需要に応じて教育をそう易々と変更するなど言語道断である。あれは使わないこれは使わないと言う前に、使わないかもしれない知識を学ばなければならない理由を考えるべきだ。これについても関連する記事を執筆する予定である。


受験が殺した理念


このような国を作りたいというイデオロギーが教育基本法や学校教育法には詰まっている。私はその理念に賛同する。しかし、法律がそうだからといって正しく運用されているとは限らない。数十年前から事情が変わってしまった。受験競争の激化によって知識を理解することが自己目的化してしまったのだ。知識の理解自体は必要である。使うためではないとは言ったが、知らなくてよいとは言っていない。実際に国家が行う施策も公的な資金で行われる研究も、それを評価するためには一定の知識が必要である。ただしそれを考慮しても受験競争は本来の理念から逸脱している。

これは公教育への支出が少ない国の責任でもあるが、受験市場の拡大によるところが大きそうだ。誤解のないように受験制度自体を批判しているわけではないことを補足しておきたいが文章にまとまりがなくなってしまうため、これもまた別の機会に論じるとしよう。いかんせん、過熱した受験至上主義は現在の教育基本法の理念から逸脱した考えである。


さいごに


本記事で述べた内容はまとめると以下の通り。

  1. 教育は個人の利益を目的としたサービスではなく、国家形成を目的としている。

  2. 指導内容を実用性という尺度で軽々しく変更して良いものではない。

  3. 受験の激化により目的と手段が倒錯している。

まだまだ語りきれないことはあるが、本記事の目的はあくまでも理科教育の目的と意義を知ってもらうことである。直接的には関連しない内容は、これから執筆する予定ですのでお楽しみに。


参考文献


  1. 文部科学省. (n.d.). 教育基本法.
    https://www.mext.go.jp/b_menu/kihon/about/mext_00003.html
    (最終閲覧日:2024年6月28日)

  2. 文部科学省. (n.d.). 学校教育法(昭和二十二年三月二十九日法律第二十六号).
    https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317990.htm
    (最終閲覧日:2024年6月28日)

  3. 文部科学省. (2019). 小学校学習指導要領(平成29年告示)解説 理科編. https://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2019/03/18/1387017_005_1.pdf
    (最終閲覧日:2024年6月28日)

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