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続・幸せの度合いはどう測るのか


こちらは前回の続きになります。


(前回)



人は、心が動いた場面や、その瞬間にしていた動作・会話に紐づいて幸せな感情を(全てではないにしても)記憶できるんじゃないか、と思う。

だから私は日記を書く。骨子を整えて、その日の時間・場所・体調などの情報と一緒に大切な思い出を綴る。

最近はいつ何をしたかわかるように一列24時間表記の手帳に、起床就寝食事といった生活の骨子を記載し、体調や感情もそこに肉付けすることで、少し解像度が上がったように感じていた。

忘れたくない瞬間は忘れたくないのに忘れてしまう件について より



そうやって日記を書いていると、どこか特別な場所へ出かけたとか、何かいつもと違うことをしたとか、そういったイベントがなくても日常の隙間に些細な幸せがあることに気づいた。

むしろ「テーマパークへ行く」「温泉旅行」といったお題目がない方が、その幸福がどこから生まれたのかという本質に気づきやすかったとさえ思う。私の脳は、安直に「そこへ出かけたから楽しかったんだ」と思い出を変換して記憶してしまうようだから。


そんな「幸せ」は、パラメーターで測れるいくつかの要素から、一定期間の度合いを導き出すことができる、と最近思うようになった。


前回の記事と言ってることが真逆では?と思われる方もいらっしゃるだろうが、
今回は「幸せ」という感情が生まれるにあたっての周辺環境、関係要素を掘り下げれば「一つの幸せの大小」はわからなくても「その幸せの多少」はわかるのでは?というお話である。


この日は将来の話をしている中で、過去と現在の暮らしぶりや二人の関係性を比較して「今が一番幸せだね」との結論に至った。10年一緒にいていまだにこんなこと言い合っているなんて、とんだバカップルだと自分でも思う。

忘れたくない瞬間は忘れたくないのに忘れてしまう件について より


例えば、引用の「今が一番幸せだね」という言葉の背景には、前回述べたような「他者に向けた言葉としての一番」という意味の他に、その「幸せの多少」に関して言えば、今が一番多いよね、という意味が込められている。

出典元の文脈では詳しく触れていなかったが、この言葉はお互いの仕事内容や忙しさ、住環境、収入などの様々な変化を踏まえたもので、それぞれの具体的な項目に関して、お互いにストレスが明らかに少なくなった=幸せを感じる機会が増えた(体感)=「今が一番幸せだね」というものだ。

要は「以前より快適な生活になった」からストレスや負荷が減り、その結果として幸せを感じる瞬間が増えた=より幸せになったという「幸せの多少」という視点から見た「一番幸せ」という言葉である。


本当は前回このお話までしようとして、脱線に脱線を重ねた結果全く別の結論に行き着いてそのまま力尽きてしまったのだが、私が言いたいことは端的に言えば「幸せの大きさは測れないけど、多さなら数えられるよね」ということだ。


よく「今よりもっと幸せになりたいなら、日常の些細な幸せに気づくことだ」的な言説を耳にするが、それはつまりもっと幸せに気づけるような環境づくり、つまり具体的なパラメーターの調整を必要とするわけで。

結論だけで語られる言葉は簡潔でわかりやすいようで、その実、模倣→体感というステップに進みづらく、本当の意味ではわかりづらい。


やっと手順を言語化でき、腹落ちしたのが30代。
これがもし20代だったら、大学在学中だったら。
人生の選択肢が増えすぎて、将来や進路に惑っていた私にとって、きっとその選択肢を上手に狭める一助となったに違いない。そしたら私は、もっと上手に生きられただろうか。

とはいえ過去を悔いても仕方がないので、私は私と大切な人のために、これからの幸せな人生の舵取りをしなければいけない。

決して人には誇れない過去も、恥ずかしい記憶も、全て背負い込んで。振り返らずに、ただまっすぐ、前だけを見て。

人生100年時代、まだ先は長いのだから。




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