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試験と時間

やりたいことがたくさんあって、ものすごい勢いで時間が溶けていく。ストーブの前に置いたアイスクリームのごとく勢いで、気がついたら夜になっていく。
そしてまた気がついたら朝になって、この時間。ついさっきまで夜中の3時だったはずなのに、いつの間にか9時になっている。体感覚としては、この9時くらいの次は、おおよそ15時くらいに「あ、ご飯の準備しなきゃ!」と意識が戻る。

意識が戻る時間ってだいたい決まっている感じがして、まるで時間列車に乗って、停車駅が決まっているような感じ。
特急に乗っていると、1時間おきに各駅停車とかは一切なく、すっ飛ばして6時間とか経ってしまう。
新幹線で言うならば、東京のつぎ、即名古屋、みたいな。

そうして、ハッとした瞬間、すなわち6時間おきの停車駅にて意識を戻した時にはいろんなことが進んでいるけれども、それでもまだまだ「あれもこれも」が残っていて、途方に暮れる。

この途方に暮れる感覚は駅で立ち尽くしているにも似ているから、「あれもこれも」をやり遂げたかったら、さっさと次の電車に乗ってしまう方がいい。




特急電車に乗っていると、一気に時間が溶けるから、あえて並走させるみたいにアニメとか、映画とかを流していることがある。
特急電車の中で、普通電車的な時間の区切り方をしてくれるものを見ているみたいな感じである。

でも、それも結局、特急電車の速度のほうが圧倒的にリアルだから、いつの間にかアニメも映画もよくわからないまま物語が進み、下手すると終わっていることもある。

「あれ、結局どうなったんだろう」と思ってもう一度流しても、気がついたら終わってしまうというのを繰り返してしまう。そうやってよくわからないまま、ほとんど見ていないのに流しはしたというアニメも映画もたくさんある。
いつかしっかり見たいけれども、果たしていつになることやら。旅行など長距離移動の時にでもいつか見よう。


学生の頃、いろいろと苦手なことがたくさんあったのだけれども、その最たる例が「時間割」だった。
授業時間、テスト時間、登校時間、というように、区切られている時間を守るのが本当に苦手だった。

授業時間は面白くても面白くなくても、50分だの90分だの、自動的に区切られている。大学のゼミだったら関係なしに続いてくれるけれども、それでも興味のない話だったら地獄に変わる。
テスト時間はまあ仕方がない。わりとすんなり諦めて適応できた気もする。
登校時間は、難しかった。高校生まではなんとかかんとか頑張ったけれども、大学生になったらもう無理だった。

毎週何時にどこどこ、というような決まった時間での登校も、おそらく出勤も向いていない。出勤はしたことがない人生だけれども、大学生の時に「無理だ」とすぐに気がついて、出勤をしないで済む進路を考えたくらいである。結果、研究者だったのだけれども、あれも待ち合わせがあるから大変だった。

何はともあれ、毎週、毎日、というような決まった時間にどこかへ行くのが義務化された途端に、無理になる。
朝が弱いとかではなくて、仮に起きていたとしても無理である。明日はこの時間にどこかに行かなきゃ、が発生すると、前日も、その前日も、下手すると1週間前くらいから気持ちが重たくなる。

出席したら単位がもらえる講義のことを「楽単」と呼んでいる学生もいたけれども、わたしにとっては出席評価は「落単」しかねない絶望講義だった。出ていなくてもいいから、レポートだけで評価します、とかの方がずっといい。

いったいどうやって小学校、中学校、高校に通っていたのか、今となっては謎である。




今日は共通試験の日である。
センター試験というのか、共通一次というのか、なんというのか。
教えていた頃はセンター試験と呼ばれていた。あれこれと変わってはきているらしいけれども、あまり抜本的な変化もないテストである。

受験生だった頃は、共通一次という名前だった気がする。よく覚えていない。ただ、試験会場に行くのが一番の難関だった。

無事に試験会場に行きはしたものの、受験票と時計を忘れてしまった記憶がある。
受験票はまだしも、時計はまずい。
でも仕方がないから「まあいっか」と思っていつも通り解いた。

次の日にはちゃんと時計を持っていったのだが、「せっかくだからお気に入りの腕時計にしよう」と思って巻いていった時計は、巻き時計というやつで、おまけに1, 2分くらい平気でずれる時計だった。
「え、正確な時間わからなくない?」と気がついたのは、試験が始まってすぐのこと。
でも仕方がないから「ないよりはマシか」と思っていつも通り解いた。

まあそんなものである。


無事に入学した大学では、オリエンテーションはおろか、入学式にも行けなかった。案内の紙に「入学式はいついつ何時に、どこどこです。その後にはオリエンテーションがあります」と書いてあっただけで、「来い」とは書いてなくて、自由参加だと思ったからである。
自由参加ならば行かない一択である。欠席者には後から事務の人が大事なことを説明してくれるとも書いてあったから安心したのもある。

大学はなんて自由でいっぱいな所なのだろうか、と嬉しく思ったのだけれども、後から事務の人に少しだけチクっと言われた。
やむを得ない理由がある場合のみ、欠席できるものだったらしい。少しだけ社会に詳しくなった瞬間だった。




びっくりするくらい時間を守れないのだけれども、飛行機には乗り損ねたことがない。
むしろ、どんなにトランジットの時間が短くても、空港内を駆け抜けて意地でも間に合ってきた。

わたし史上、最高のランを見せた空港は、ドーハのハマド国際空港である。つい数年前にヨーロッパに行く際に利用したのだけれども、もともとトランジット時間が40分ほどで、挙句に飛行機が遅れて20分くらいになったのだ。

空港内には電車が通っていた。そのくらいデカいハブ空港で、ものすごいキラキラしていたのを覚えている。
石油の国らしく、なんとなく黄金っぽいゴージャスな空気感で、ガラス張りのかっこいい空港だった気がする。

どれも記憶が曖昧なのは、ずっと走っていて、景色なんてろくに見ていないからである。
何年も経った今でも覚えているのは「E」から「B」に行ったということ。搭乗ゲートまでは流石に覚えていない。その途中で電車に乗って、降りて、スーツケースをほとんど引きずるみたく、飛ぶように走ったのだ。

あれ以来、ハマド国際空港には行っていない。


国内であろうと国外であろうと、必ず飛行機には間に合う。
「いっそ誰かとの待ち合わせも飛行機だと思ったら?」と言われた。考えてみて、すぐに無理だった。
空港だから、テンションが上がって間に合うだけなのだろう。


飛行機以外の待ち合わせは「何時」ではなくて、「お昼」とか、「おやつどき」とかがいい、と。いつも思う。
きっとわたしにとっては余白が大切なのだ。

異国にいた頃はだいたいそんな待ち合わせばかりだった。人との待ち合わせも、バスとの待ち合わせも、電車との待ち合わせも、どれも余白ばっかりだった。
でもどうしたことか、苦にならない。むしろ待っている時間も、向かっている時間も心地が良くて、心穏やかに過ごしていた気がする。

日本はとくに時間がピッシャリと決まっている。
電車も数分遅れたら大騒ぎになるし、時刻表通りになんでもくる。

本当に、すごいな、と思う。

わたしが暮らしていた異国は時刻表通りに来ることなんてほとんどなかったし、下手したら時刻表を書いている看板は消えているし、車内のアナウンスもない。
それはそれで困るけれども、「なんかそんなもの」と思ってしまったら案外慣れてしまうものである。まあ流石に、特急電車内の電光掲示板がずっと真っ暗で今どこにいるのか、次はどこなのかわからないのは恐ろしい心地がしたけれども。




そんなこんなで、本日はセンター試験である。

試験時間との戦いを繰り広げてきた受験生たちがたくさんいると思う。

受験票を忘れてもどうにでもなるので、受験生のみなさんが平常心で力を出しきれますように。


おわり。


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