見出し画像

似非の椅子座禅

月一回土曜日に通っている仏教講座の中で、講師であるドイツ人禅僧から時々椅子座禅を促されることがあります。私のような凡夫は当然ながら色々と誤解をしながら生きてきているのだと思うのですが、その教えの中で一つの気付きがありました。これまで、座禅においては自分の内面に集中することが大事だと思っていたのですが、そうではなくてむしろ周囲がどのような世界で、自分はその中でどう在るのかという、周囲の中の自分の在りようを感じることが大切だと仰るのです。ああ、それで座禅の際は目は完全に閉じるのではなく、半眼の状態にする方が良いとこれまで様々な禅僧が教えてくださっていたのだと初めて得心しました。

この椅子座禅、大阪の中心梅田の高層ビルの17階で実践する訳ですが、他の教室での生徒と講師の間の会話が聞こえるかと思えば、中途半端な状態で残して来てしまった業務課題を来週どうこなそうか、この講座の後週末何をして過ごそうかといったような雑念、はたまたこんな状態では椅子座禅になっていないではないかというような反省が、頭の中に次から次へと湧き出してきます。その講師の方が仰るには、そうした色々な想念が形になる前に頭の外に素早く放り出して、周りの音や様子、自分の足の裏やお尻から伝わってくる床や椅子の感触、そして自分の呼吸、心臓の鼓動に神経を集中させることが大事であるとのことです。

確かにそうすることによって、自分がもとはと言えばどのような生き物で、どのように呼吸をし、心臓を鼓動させて生きているのか、そして周りはどのような環境で自分はその中でどう生かされているのかというようなことが、おぼろげながら感じらてくるような気がして、日常のしがらみから少し逃れられるような、自分の原点に立ち戻るような安堵を覚えることができる気がします。

煩悩を振り払いたい!! (三井寺の鐘)

この椅子座禅の魅力を皆様により正確にお伝えしたいと、noteに書くにあたって、家で実践しようとしたのですが、全くうまく行きませんでした。当然ながら、椅子座禅の魅力をお伝えするために実践してしまっているので、如何に書けばその魅力が伝わるのか、この椅子座禅が終わったらどのようにnoteに書こうか、ああ、座禅をしながら頭に立ち起こった想念を書き留めておきたい、といったような邪念が次から次へと湧いてきて、それらを講師の方に教えられた通り、次から次へと自分の頭の外に放り出すのですが、全く追いつきません。修行が深まっている方であれば、椅子座禅の時は椅子座禅あるのみ、その後のnoteへのアウトプットはアウトプットとその一瞬一瞬に完全集中できるので、それぞれの成果も大いに上がるのでしょうが、私の場合は両者の境がなく、現在と未来がごちゃごちゃになっていしまっているため、本当に何をお伝えしたいのかわからなくなってしまいました。

しかし取ってつけたようではありますが、それでも、椅子座禅というのは素晴らしいものです。自分が邪念(上述の場合は、noteに上手く記載して皆様まからスキを沢山獲得しよう、というような欲望)にまみれ、未来を考えているようで却って未来を混乱させてしまい、現在を十分に生きていない、その混乱ぶりを知ることができます。この矛盾に満ちた状態を知るだけでも日常生活で何に気を付けなくてはならないのかのささやかなヒントを頂けるのではないかと、これまた損得を考えた邪念が頭をもたげる訳です。ああ、私の人生というのは永遠に思うようにならないことが良く分かります。せめて皆さまにおかれましては、私を反面教師に少しでも椅子座禅に興味を持ってもらえると良いのですが・・・。

苔に降り積もるモミジ (瑠璃光院)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?