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6年越しの書き抜き帳から


手のひらに収まるほどの、赤いモレスキンのノート。
読んだ本の中で、「これは」と思った文章を書き留めておくためのものだ。

本を読む時に少しでも気になったところがあるページには、迷いなくドッグイヤーをしていく。
そして少し経ってからまたその箇所を読み返して、そのときにも、やっぱりここは大切だなと思ったところを、このノートに書き写す。

自分の目で二重に濾過された文章は、ぎゅっと濃縮されたお気に入りだから、何度読み返しても、心に突き刺さるものです。



ふと原点に帰りたいとき、過去の自分と対話したいとき、何かを書きたい時に、このノートを開いては、あらためて咀嚼してみる。この時間が、時々すごく大切だ。

ふと一番最初のページを見たら、2015年と書いてある。
そんなに前から使ってたんだ。

未だに1冊のノートのページが埋まっていないことに、少し落ち込む反面、本当に自分に刺さる文章というのは、そんなに簡単に見つかるものではないのかな、とも思う。
(そもそも、読書量が圧倒的に足りてないのでしょうが…)


ここ最近、書くことにあらためて真剣になってから、楽しさと同時に、つらさも感じるようになってきました。

書くエネルギーは、体にも心にも負担がかかる。また書くためにはインプットも続けなければならない。つかれる。つらい。
それでも、なにか書きたい。


そう思った時、やっぱりこのノートに帰ってきました。
そして、「文章を書くこと」について考えながら書き抜きをじっくり読み返してみた時、やっぱりそれらの文章は宝物だなぁと思ったのです。

何年経っても、今の私に、影響を与え続ける言葉たち。


今回は、6年越しの書き抜き帳から、「文章を書く時に思い出したい言葉」を、抜粋してみます。

これはほとんど自分のための記事だけれど、たまたまこのnoteを読んでくださっているあなたにも、何か残るものがあったらいいなと思いながら。


言葉!ただの言葉!その言葉の怖しさ!明晰さ、なまなましさ、残酷さ!誰も言葉から逃げおおせるものはいない。しかもなお、言葉にはいいしれぬ魔力が潜んでいるのだ。言葉は無形の事物に形態を付与し、ヴィオラやリュートの音にも劣らぬ甘美なしらべを奏でることができる。ただの言葉!いったい、言葉ほどなまなましいものがほかにあるだろうか。

オスカー・ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』


友人であり画家のバジルの肖像画のモデルとなった美青年ドリアン・グレイ。

モデルとしてポーズをとっている間に、言葉巧みなヘンリー卿の、快楽主義への誘いに魅了されてしまったドリアンが、破滅へと向かうさまを耽美的に描いた小説。

まさに「ただの言葉」によって、若さも美しさも純粋さも、すべてを失うことになってしまったドリアン。

言葉の持つ魔力のすばらしさとあやうさを、忘れてはいけないように。



大事なのは、自分に嘘をつかないことです。自分に嘘をつき、自分の嘘に耳を傾ける人間というのは、自分のなかにもまわりの人間のなかにも、どんな真実も見分けがつかなくなって、ひいては、自分に対しても他人に対しても尊敬の気持ちを失うことになるのです。

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』


嘘がある文章を、読み手は意外と簡単に見抜いてしまうものです。

どこか説得力に欠け、書き手である自身にも、読者にも不誠実な文章。

どれだけスキが欲しくなっても、劣等感に苛まれても、自尊心を失う嘘だけはないように。もっとも、普段の生活の中でも、ね。



私の身近にあるこの微温い、好い匂いのする存在、その少し早い呼吸、私の手をとっているそのしなやかな手、その微笑、それからまたときどき取り交わす平凡な会話――そう云ったものをもし取り除いてしまうとしたら、あとには何も残らないような単一な日々だけれども、――われわれの人生なんぞというものは要素的には実はこれだけなのだ。

堀辰雄『風立ちぬ』


起業したいとか、成功したいとか、優勝したいとか、負けたくないとか、フォロワーを増やしたいとか。なんとかして上りつめようとあくせくするその時間よりも、そばにいる人の小さな息遣いとか、部屋に差し込む日の光を浴びているときとか、毎日数時間おきにごはんを食べるとか。そんな日々の平凡な瞬間にこそ、「書きたいこと」は眠っているのかもしれない。もしかしたら、これ以上ない幸せの正体も。

人生とは、そんなものなのかもしれない。

そんなことに気づかせてくれる、木漏れ日のように美しくて、さわやかな悲しさのある小説。



空想的なものは、書物とランプの間に棲まう。幻想的なものはもはや心の中に宿るのではなく、自然の突飛な出来事の中にあるのでもない。それは知の正確さの中から汲みあげられてくるのであり、その富は文書の中で読まれるのを待っているのである。夢をみるためには眼を閉じていてはならない。読むことである。

ミシェル・フーコーの言葉(中山元『フーコー入門』)


奇怪なファンタジー小説を書いてやる!自分の想像力だけで!といざ意気込んでも、おそらくすぐに限界が来てしまうでしょう。

なぜならその「自分の想像力」は、すでにどこかの書物から無意識のうちに汲みとった「富」なのであり、ゆえにそれは蓄積されていくべきものですから。

「夢をみるためには眼を閉じていてはならない。」

しびれます。すべての夢追いびとが、心に刻み込んでおくべき言葉な気がします。

創造を続けるために、読み続けなければならない。あらゆる創造的なものを、目の当たりにしなければならない。


よもや6年もかけて書き抜き帳1冊も埋まらないようでは、先が思いやられますが。。

「書くために読む」ための勇気と力をもらえる、たくましい文章です。



自分自身であることを恐れてはならない。自分自身のみを表現することを恐れてはならない。もし君がほんとうに誠実であるなら、君のすることはほかの人にも伝わるだろう。

シャガールの言葉


吸い込まれそうなくらい深くて、張り裂けるほどの悲しみも、永遠に続く幸せも表現してしまう、独特な青の広がる絵が魅力的なシャガール。

誰もが簡単にアウトプットできるようになった時代、声を上げることをためらう人の背中を押すような言葉です。

どんな分野であれ、あなたの仕事は、それが誠実なものであるならば、誰も見てくれないことなんてない。この世界のどこかの誰かには、必ず届くんだよ、と。


勉強がすべてだ。そして勉強とは、言葉を鍛えること。表現を鍛えること。そして、感性を鍛えることである。おもしろきことを、発見する力。それは結局、感性の鋭さなのだ。世の中を見る、視線の鋭さのことなのだ。

近藤康太郎『三行で撃つ 〈善く、生きる〉ための文章塾』


「書くこととは、善く生きること。」

そう言い切った著者の、清々しいメッセージ。

ビジネス書や実用書の類に感動した経験は、まだほとんどないのですが、本書にはたいへん刺激を受けました。

映画みたいなドラマチックな人生でなくとも、おもしろきことは自分の目で発見できる。その力を養うために勉強する。

繰り返し研いだ刃物の切先のような、感性を育てるために。



大事なのは、山脈や、染色工場や、セミ時雨などかからなる外の世界と、きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること、一歩の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と調和をはかることだ。たとえば、星をみるとかして。

池澤夏樹『スティル・ライフ』


学ぶということは、関連付けることなんだと思います。

大学で学ぶような知識も、日常のなかでのささいな学びも、異なる分野の学問や、遠くにあるかのように思える事象や、名もない感覚と結びついた瞬間、突如として自分のものになる。

その連鎖によって築き上げた、自分だけの知識の体系・思考の枠組みを、自分をとりまく外側の世界に向けていくこと。新たに連関させていくこと。たとえば、星をみるとかして。

学ぶことがおもしろいのは、そういった点にあると思うのです。

その関連付けは、きっと誰かの役に立つかもしれないから、文章にして残していきたいものです。


書き抜き帳のなかから、7つの文章をピックアップしました。

文章を書くときの、よりどころ、戒め、養分として。何度も振り返っては、前に進んでいきたい。

そしてこのノートが今後いっそう、自分だけのぜいたくな書き抜きで満たされた、宝物になりますように。


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