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悪夢だったらよかった。それでも/『オッペンハイマー』

土曜日の夜、夢の中でわたしは映画のチケットを予約していた。何かにせつかれるように、とにかくあわてて席をおさえていた。寝苦しくて目が覚めた瞬間に思った。「オッペンハイマー観に行かないと」


劇場へ映画を観に行くとき、その日1日はすべて映画のための日だという気持ちでいる。チケットはオンラインで予約し、上映中にトイレに行きたくならないよう事前にたらふく炭水化物をとり、上映後はゆっくりと余韻に浸る。その一連の流れが、わたしにとっての「劇場で映画を観ること」だ。そう捉え始めてからは、映画の内容と共にその1日のこともよく記憶に残るようになった。


わたしの『オッペンハイマー』は、悪夢から始まった。クリストファー・ノーラン監督作品は好きだが、正直なところ本作は劇場で観るのをためらっていた。だが夢にまでうなされてしまったからには、行くしかない。こんなことは初めてだった。


観てよかった、と思った。ほとんどが会話劇にもかかわらず、3時間という上映時間が気にならないほど引き込まれた。それは構成が難解だからでもあると思うけれど、劇場ならではの大スクリーンの迫力と轟音がとても魅力的に感じられる演出だった。トリニティ実験のシーンの張り裂けそうな緊張感は、たぶんずっとずっと忘れないだろう。


本作は原爆の父であるオッペンハイマーの視点と、彼に恨みを持つストローズを中心とする周辺の人物の視点というふたつの軸で展開される。科学理論の天才であるオッペンハイマーがいかに原爆開発に携わるようになり、戦後どう追い込まれていくのか。彼の女性関係、人となり、葛藤、過度なストレスといった要素が複雑に入り組んだ時間軸の中で描かれていく。


妻を愛していながらもやめられない不倫。科学者としての情熱と呵責。原爆の開発と水爆の否定。物質を粒子と波動の両方の性質を持つものとして捉える量子力学の不確定性になぞらえるかのように、彼のアンビバレントさを巧みに描いていたように思う。彼はつねに不安定で、天才で、ダメな人間でもあり、鑑賞者はたやすく感情移入できないのである。

本作をめぐってはいろんな意見が飛び交っているが、わたしが見た限りでの否定的な意見の多くは感情的なものだ。日本人としてはどうしても受け入れ難い場面もあることは確かで、わたし自身も辛い気持ちになったシーンもあった。原爆のもたらした惨状をもっと描いてほしいと言いたくなる気持ちもわかる。ただそうした気持ちだけでこの映画のすべてを否定してしまうことは、ひとつの機会損失だと思う。


本作はあくまでオッペンハイマーの主観が貫かれており、彼が直接見ていないものは描かれないというだけだ。ナチスの蛮行も、広島、長崎の惨状も。わたしたちはひどく感情移入を許さない主人公を先頭に、人間のどうしようもない愚かさと、核の脅威に晒され続ける世界への転換をあくまで客観的に追体験していく。


最悪な結果となる可能性があっても「やるしかない」という観念に支配される戦時下。大国がいつでも世界を滅ばせる力を持ち、互いを脅し合い続けている今の世界を、当時の科学者たちも、政府の人間も、大統領も、本当の意味では想像できていなかったんだろう。映画の中ではある意味で冷静に体験した恐怖だが、上映後の現実には本物の恐怖が横たわっている。わたしにはそれが何よりも恐ろしくてならなかった。3時間にわたってかじりつくように観た映画が、完全なフィクションでないことへの絶望。本作で描かれた史実も、核の傘に覆われた今の世界も、全部悪夢だったらよかったのにと思う。


それでも、観たことに後悔はない。起こってしまったことはどうしたって変えられないし、たぶんこれからもきっと世界は核の恐怖を利用し続ける。終末へのカウントダウンを止めるために、人間はどうあるべきなのか。そう問いかける自分が心の中に現れたことが、小さい小さい希望のような気がする。

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