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ポケットのビー玉のような詩

フランス・ニースに在住する俳人、小津夜景の『いつかたこぶねになる日』を読みました。おだやかな日常を綴りながらも、時おり漢詩への扉をそっとあけて寄り道させてくれるようなエッセイ集でした。「たこぶね」というかわいい響きに惹かれて手に取りましたが、異国のかおりと教養の深さに魅せられゆられて、見知らぬ詩の王国に連れて行かれるような、なんとも不思議な本でした。いくつもの詩が身体に染みこんでいる人は、なんてことのない瞬間にふとそれらを思い出せるようで、それが心底すてきだなあ、いいなあと思います。


小学校のとき、国語の授業で「平家物語」を暗誦したことがあります。何回かつぶやいたらあっという間に覚えて、先生の前で暗誦させられました。当時はただリズムとして覚えていただけで、内容をじっくり味わうこともありませんでした。暗記なんてなんの意味があったのだろうと、つい最近までは思っていました。

今になってみると、あれには意味があったと確信できるようになりました。身体に染みついたフレーズをふと思い出すと、そのリズムや言葉の響きの美しさに隙をつかれたように驚いてしまうことがあります。

わけもわからず覚えて、いまでもすらすら言える古典や詩のフレーズはほかにもあります。

春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。 よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。

カムチャッカの若者が
きりんの夢を見ているとき
メキシコの娘は
朝もやの中でバスを待っている

こうした歌や詩は覚えていても生活のあれこれに役に立つことはほとんどありません。テストを受ける場面もなく、会話の中で引用する場面もそうそうないでしょう。それは世を渡るための道具というよりも、ポケットに入れたビー玉のように、ときどき指で転がしては安心する、小さなよりどころというほうが近いかもしれません。


福永武彦の『形見分け』という短編に「好きな時に取り出して手で触ることのできる生活」という表現があったことを思い出しました。小津夜景にとって詩はここでいう生活のようなものなのでしょう。彼女のポケットは古今東西の詩でいっぱいに膨らんでいて、いつでも手のひらに取り出して眺めることができる。これほどおおらかな富が他にあるでしょうか。


肌身離さず持っているようなお守りとしての詩。内なるともだちとしての詩。
世界があまりにもつらいことだらけで、人や情報の軽薄さにいつだって疲れてしまう時、そんな詩が私を守ってくれるかもしれない、と思います。それがポケットのビー玉のように大事に隠し持っていられる富ならば、いくらでも増えていいと思うのです。

本書からの引用で、今回は終わります。

「詩は日常にはじまり、人の心と共振しつつも、日常から超然と隔たった、言語ならではの透明で抽象的な砦をひそかに守っている。そしてその透明な砦のつれなさは、まるでからっぽの空のように、私を心底ほっとさせるのだ。」

「詩とは誤謬の創(きず)である。創をつくる。そのとき世界はあらわれるだろう。逆から言う。創をつくることでしか、世界はあらわれないだろう。創造とはつまりそういうことだ。」

「なにより詩は覚えやすく、病めるときも貧しいときもいっしょにいられるのがいい。」

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