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"多様性"の落とし穴

多様性/ダイバーシティという言葉や思想を毎日のように目に/耳にするようになった。

人はそもそもが違った存在であるという前提のもと、それを認めていこうという風潮らしい。

そういうメッセージ性を込めてか、ピクサー社も長い時間をかけて、多様性を前面に押し出した「マイエレメント」という映画を製作、公開した。

僕は昨日その映画を見て、様々な場面で感動的な涙を流した。

映画はとても良かった。伝えたいメッセージも、自分なりに読み取ることができたと思っている。

ただ、いざ現実に戻ってみれば、この「多様性」という言葉が、ややもすれば危険をはらんでいる、諸刃の剣的な概念なのではないかということに思い当たった。

『マイエレメント』

僕はあらすじを私見を挟まずにまとめるのが得意ではないので、ざっと紹介することとする。

舞台は、火・水・土・風の4つのエレメントが住むエレメント・シティ。

主人公は火のエレメントの女の子アンバー、そして水のエレメントの男の子ウェイド。

現実世界と同じく、火と水の相性は良くなく、火は水によって消されてしまうし、水も火に近づけばたちまち沸騰し蒸発してしまう。

性格的にも、火のエンバーは情熱的で怒りっぽい、水のウェイドは泣き虫で心優しいと、その特性が擬人化されて描かれている。

簡単に言えば、この二人があるきっかけで出会い、心惹かれていくが、お互い「関わってはいけない」という暗黙のルールの中で、どう距離を縮めていくのか、果たしてうまくいくのか、というのが主題である。

副題的に、「自分が本当にやりたいこととどう向き合うか」という、これも現代的なテーマが扱われているが、ここでは深くは触れないこととする。

ここまで書いて、やはり主観を交えずに書くのは至難だと感じたため、この後は好きに書かせていただくがご容赦頂きたい。

4つのエレメントが存在するエレメントシティだが、この4つは必ずしも平等というわけではない。

水・土・風はお互いに害を及ぼすこともないし、むしろ相互的にメリットももたらすから共生しているが、火だけはそうではない。

水に触れれば火は消えるし、土(植物の形をしている)は火に燃やされてしまう。風は直接の害はなさそうだが、火と相性の悪い水と土に合わせて、"多数派"として暮らしているように見える。

火だけが疎んじられていて、その光景から思い出されるのは、南アフリカのアパルトヘイト政策だ。

だから火のエレメントだけは、街の外れに、自分たちだけの居住地を設けて、外界と接しないように暮らしているのだ。

「みんな違って、みんないい」の本音

ここからはあえて映画とのつながりを意識せずに、見て感じたこと、インスパイアされたことを書き連ねたいと思う。

はじめに書いたように、現代では多様性という言葉が各所で叫ばれるようになった。

およそ100年前(1924年)に書かれた、日本人ならほとんど人が知っているであろう『私と小鳥と鈴と』の「みんな違って、みんないい」というフレーズが、一つのスローガンにもなりつつある様相を呈している。

僕個人としては、多様性=世の中には様々な個性や属性の人がいて、それぞれが認められる社会というのに異議をとなえるつもりはないし、むしろ賛成の立場だ。

だが、「多様性(を認める)」というという言葉は、実はとても抽象的な概念で、何かを伝えているようで、その内実ははっきりしない。

「多様性を認めている」という状態が一体どういう状態を指しているのか、一部の人は言語化し理解しているのかもしれないが、曖昧なまま「みんな違って、みんないいよね」という表面的な言葉だけを口にしている場合も少なくないと思う。

詩は「みんな違って、みんないい」で終わるが、この言葉の後に何か正直な思いを付け加えるとすれば、みんなどんな言葉を足すのだろう。

僕は歪んでいるのか、はたまた批判的なのかもしれないが、「みんな違って、みんないい。だって関係ないし」と思っている人も少なくないのではないかと思う。

分かりやすいのはセクシャリティの問題だ。

「LGBTQ」に代表されるセクシャルマイノリティの人々が様々なメディアに登場し、若い人を中心に「まぁいいんじゃないでしょうか、人それぞれですし」という人が増えた。

けれど、彼らの婚姻をはじめとする権利の問題について、少なくとも日本では変わっている感がほとんどない。

結局のところ「いいんじゃない」と言っている人たちは、なぜいいのかと言えば、「だって自分は違うし、周りにもいないし、詳しく知らないし、関係ないし、だからまぁそういう人がいてもいいんじゃない」という、実は極度に冷たい感覚が故の「いいんじゃない」なのではないかと感じられてしまうのだ。

あくまで一例としてセクシャルマイノリティの件を持ち出したが、実はここに大きな落とし穴があるように僕は思う。

本当に多様性が認められる社会にするためには、対話や議論が必要だし、その過程で衝突が起きたりまとまらなかったり、上手くいかないことがあるのは当然である。

そして、対話をする、議論をするには、相手を知り理解しようとする姿勢、興味や関心をもつことが欠かせない。

しかし、先ほどの話からすれば、「みんないい」という社会ができていくにつれ、「自分には関係ない」という無関係論者が増えていく可能性も否めない。

つまり、「多様性、多様性」という言葉が独り歩きした結果、自分とは違う人たちを「いい」と認めているようで、実は「どうでもいい」という解釈をして分断し、無意識に離れているということもあり得るのではないか。

(ここで浜崎あゆみの『Boys&Girls』の歌詞"「イイヒト」って言われたって「ドウテモイイヒト」みたい"を思い出してしまうところに自分の年を感じさせられる…)

このような無関心な態度の下に、「異質の他者を理解し、受け入れ、共に生きる」という社会が成り立つはずはない。

そうすれば、「多様性を認めています」というベールの中で、社会的弱者は関心も持たれぬまま、結局のところ、弱者たちだけで集まることを余儀なくされるという分断された世界ができあがるだけだ。

そしてこれは、必ずしもマイノリティに限った話ではない。

1対1個人の人間関係においても、最近では「合わない人とは付き合わなくていい」という言葉が便利に使われるようになった。

本当に悪意を持って自分を傷つける人に対してそのような対処をするのは、自分を守るために必要なことだ。

だけど、この考え方も、突き詰めるならば、自分とは考えや価値観が違えばその時点で関係終了というような、対話も歩み寄りもない人間関係を許容してしまうことにもなる。

そこには、自分自身の変化や成長もなければ、他者に歩み寄りや対話を求めることも起こりえない。

人は、そもそもが違う遺伝子と環境で育つのだから、「価値観が違う」という状況は99.9%起こる。

にもかかわらず、それを理解しようとも歩み寄ろうともしないとすれば、人は一人で生きるしかない。つながりのない社会が完成される。

ここに書いた考えはあまりにもディストピア的だし、さすがに考えすぎじゃない?と思うかもしれないし、僕もそう思うところがある。

ただ現にそのように、自分の価値観を頑なに守ろうとするあまり、人間関係をうまく築けない(だからあえて築かない)という人が、徐々に増えているようにも感じられる(自分もそういう節があるので、自分の首を絞めている感も否めないのだが)

「個別」が大事にされすぎたあまり、「個(孤)立」「個(孤)独」な社会が、不可抗力的に作られている感すらあるのだ。

この「"多様性"という言葉の危険性」に、僕たちは気づかなければならないと思う。

多様性を認められる社会のために

それでは、少しでもそうならずに、まずは個人からでも、本当の意味で「多様性を認める」を体現するためにはどうしたらいいのか。

これは、先ほども書いた通り、「関心を持ち、対話し、理解し、歩み寄る」という地道なステップを踏むしかないと思う。

そしてその過程では、自分の価値観が脅かされ傷つくこと(というよりは自分の元々持っていた傷に触れて痛むこと)はきっと避けられない。

だからこそ人は、多様性を認める大前提として、まずは自分の傷や痛みを知り、それを受け容れることが必要なのだ。

そう考えれば、「多様性を認める」というのは、他者に関心を向ける以前に、実は自分自身に関心を向けなければならない

それは自分の「Will/Can/Must」などと言った"良い"側面にスポットライトを当てるだけではなく、傷や痛みといった見たくない部分にもしっかりと注目してあげることだ。

それはエンバーやウェディが、自分の中にある「痛みや苦しさ」と向き合っていくのと似ている。

そうして初めて、本当の意味での「みんな違って、みんないい」を実現できるし、そこから「みんな違って、だからいい」という、共生から共創の社会につなげていくことができるはずだ。

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