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チェンソーマンから考える名付けの妙とコロナについて

今回はちょっと真面目な話

注*下記は個人の見解での話です
注**新型コロナウイルス感染症や、センシティブな内容を含む話です

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「チェンソーマン(藤本タツキ著/ジャンプコミックス)」をみなさんはお読みになったことはあるだろうか?

下記では僕が主張したいことのために参照しているだけなので、未見の方でも大丈夫です。作品が気になる方は、単行本やWikiなどをチェックして欲しい。

「チェンソーマン」内では「悪魔」と呼ばれるモノの力を借りて(契約して)悪事を働いたり、自らの正義を貫かんとするのだが、その呼称は「〇〇の悪魔」と二つ名になるのだ。

〇〇に入るのは「銃」だったり「刀」だったり「暴力」だったりと、畏怖の対象となるものが殆どである。

人が恐れるほどに悪魔は強くなるので、強さや脅威の度合いをあげるには、そのもの自体が抜群に怖いものとなればよい。

(作中では銃を厳しく取り締まったために各国が銃の悪魔の権利を主張し核ミサイルのように自国の防衛手段として使っていた)

つまり、そのモノ自身の認知度が上がれば上がるほど利用する側にとっても、悪魔にとっても好都合になるのだ。


名付けの段階で認知度が高い言葉を組み合わせて使うというのは、モノをプロモーションする際の重要な要因である。


たとえば、新商品のオレンジジュースが

「sinensis」(注:オレンジの学名の後半部)

だったならパッと覚えて購入に至るだろうか?

「オランジーナ」「トロピカーナ」

など、耳馴染みがよくてモノとも関連付けやすい呼称が優先されるだろう。
(逆張りで、まったく耳馴染みのない言葉を使うのもまた一つの手段なのだと思うが上記は一般論ということで一旦飲み込んでほしい)


本題に入ろう

この正月は80歳の祖母と会話する事が多かったのだが、話題は自ずと新聞やニュース、テレビなどマスメディアの話と地域の泥臭い他愛もない話になってくる。
情報を受動的に受信する祖母に取捨選択(チャンネルの切り替えは置いといて)する余地は殆どない。分かりやすく噛み砕かれた、恣意的なフィルターのかかった、過剰にリピートされた情報だけが全てなのだ。

祖母は「コロナウイルス」が「新型コロナウイルス感染症/COVID-19」に対する世界共通の呼称で、「コロナ」が国内での共通認識だと思っていた。外れではないのだけどもねえ。

僕自身「SARSコロナウイルス2」や「COVID-19」のことを「コロナ」とのみ呼称しないようにしているのだが、祖母と話すときはそうはいかない。祖母の中では全ての諸悪の根源は「コロナ」なのだ。


「呼びやすさ」とはいかに人間の深部に早く溶け込み離れないものかといたく関心してしまった。


祖母の「コロナ」呼称への拘りは非常に理解できるものである。

愛車は長らく「トヨタ コロナ(1957-2001製造)」だったし、映画館などで有名な「コロナワールド(1973-)」も近所にある。

そりゃあ自分の生活に50年以上馴染んだ「コロナ」は上手く他の形へ変え、畏怖の対象となるでしょうよ。

言うなれば、住み慣れた地名と同じ名字の人と知り合って、名前を一発で覚えることができたみたいなもんである。滋賀県出身の人が滋賀さんと知り合うとか。

では「SARSコロナウイルス2」や「COVID-19」を「コロナ」と初めて呼称したのは誰なんだろうと疑問に立ち返るのである。

(上記の二つは2020年2月11日にWHOによって定義されている)

国内で新型コロナウイルス感染症と発表され、「コロナ」とのみ抽出し情報媒体で撒き散らしたのは誰なのか。日常に溢れていた単語が牙を剥き人を襲う様子を見るのはこれが最後になって欲しいと思う。畏怖の対象として蔓延った「コロナ」は元の所有者を無きものにしてしまう。「コロナビール」が例になるだろう。光冠を意味する“corona”はもうこの世に居ない。

暴力的にはなるが、チェンソーマンの用語を借りて「コロナの悪魔」とまで言えばわかるだろうか、ここまで脅威を浸透させてしまった単語が元の役目に戻るのは難しい。

作中では、チェンソーマンに食べられた悪魔はこの世から消えてしまうというが以前の「コロナ」は食べられたのだろうか?またはこれから「コロナ」は食べられていくのだろうか?少なからず今後「コロナ」の名を冠すものは先10年出ることがないだろう。

「SARSコロナウイルス2」「COVID-19」無き後の社会にあるのは、コロナが本来の意味を取り戻した未来であってほしい。

2021/1/4 13:30

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過去最高の新型コロナウイルス感染者数を記録している年末年始に寄せて思ったことを書いてみました。ちなみに祖母のことは大好きです。


もともと、「名前のない事象に名前がつけられ」て、それが元で不利益を被る人が出ることについてどうなんだろうなと思っていました。
2000年台初頭のアスペを皮切りにADHD、HSP、LGBTQ、パワハラモラハラなどなど枚挙にいとまがないですが、無論名前があることで救われる人もそこには必ずいるし、そうでない人もいるということは心に留めておいても良いのではないかなと思っています。

「名前のない事象に名前がつく」ことで安心するというのは病名が判明し、安堵するというのと近い気がします。病名が分かればお医者様は薬を出してくれたり、手術をしてくれたりします。つまり、命名とは対処に近づく一歩目なわけですから。

しかし、その名前を盾に権利を主張したり自らの隠れ蓑にすることは避けたいことだなと自分では思っています。これは人に強要するわけではありませんが、「名前のない事象に名前をつける」ことは自分の過去やこれから、今起こっている問題をより明確にしていくための一歩目な訳です。

ここで、呼びやすさというのは大きなファクターではありますがその実態がなんなのかというのはあまりわかっていないことが多いと思います。(正直ADHDがなんの略かちゃんと言える大人をあまり知りません。)

命名することとと、負のレッテルをつけられるというのはニアリーイコールの関係なんじゃあないかなとも思うわけです。本当の名を相手に教えてはいけないみたいな話になってくるのも近い話でもある気もします。
要するにラベル付された事象が何であれモノやヒト、自分への理解を惜しまない事が僕の中では最も尊い行為かなと思います。

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