漱石漫談_Fotor

読むことと語り合うことによる発見〜『漱石漫談』

◆いとうせいこう、奥泉光著『漱石漫談』
出版社:河出書房新社
発売時期:2017年4月

いとうせいこうと奥泉光の文芸漫談シリーズ『文芸漫談 笑うブンガク入門』『世界文学は面白い。』に続く第三弾。タイトルが示すとおり夏目漱石の作品をだけを収めています。国民的作家の作品を深刻になりすぎず、肩のこらない調子で軽快に読み解いていく。といってもいい加減な読み方ではありません。相変わらずの面白さです。

《こころ》を同性愛の観点から読むのは今ではありふれた読解ですが、ここではいくつもの組合せにそれを見ようとしている点で、より徹底しているといえます。先生とK。先生と西洋人の知り合い。トーマス・マンの《ヴェニスに死す》を引き合いに出すあたりもなかなかオツです。

《三四郎》はユーモア小説であり、三四郎の成長譚としての教養小説でもあり、最先端のファッションを描きこんだ風俗小説でもある。二人はそのような作品の多層性を確認していきます。そのうえで「絵画」の世界があらわれると奥泉が指摘するのは斬新な視点だと感じ入りました。

代表作《吾輩は猫である》での語りはいっそう漫談は熱を帯びています。猫を語り手にした着眼をひとしきり称賛するのはお約束としても、「どんどんと言葉が言葉を引き出していくところ」に魅力を見出しているのはなるほどと思います。描写の美文、教養の炸裂、リズム、フレージング……。
吾輩たる猫が鼠を取るシーンは日露戦争のバルチック艦隊との決戦のパロディになっていることはすっかり忘れていました。

また、いとうが漱石と虚子のホモ・ソーシャルな関係に言及しつつ、苦沙弥先生のミソジニー的な人物像を批判しているのも傾聴に値するでしょう。「ヘイトは面白くないぞ」と。

漱石作品では最もポピュラーだと思われる《坊っちゃん》。いとうは政治小説としてそれを読みます。明治維新とは薩長土肥による江戸の征服であり、坊っちゃんは旧幕臣の出身ゆえ敗者ということになります。相棒の山嵐は会津っぽなのでその文脈からしても仲間です。
「敗者である江戸の人間が、薩摩、長州までは行けないが、なんとかその近いところで大暴れしてやろうと画策する、意趣返しともとれる」。もっとも奥泉はその説にはあまり乗ってこなかったのですが。

《草枕》は小説についての小説、いわばメタ小説の観点から論じられます。「この小説の持っている批評性は衰えを知らない」と奥泉。作中において小説の読み方まで示されているという点ではたしかに批評的といえるでしょう。当時隆盛していた自然主義リアリズムとは対極にある作品なのです。

《門》。略奪婚で友人から女性を奪った主人公の宗介。その友人が隣家に出入りする可能性のあることがわかって狼狽えるのですが、実効的なことは何もできず、一人で勝手にお寺の座禅入門コースみたいなところに通い始めます。漱石作品には読んでいてイライラさせられる男がよく登場しますが、宗介はそのなかでも格別でしょう。いとうは「男の卑怯さがこの小説のテーマだ」と総括します。なるほど女性の立場から本作を読み直すのも一興だと思います。

《行人》は読めば読むほどにアラが見えてきて「語りの構造が破綻している」(奥泉)点が気になってきます。とはいえ兄嫁の直についていとうが強い関心を示しているのは興味深い。「女=蛇=水」の道成寺の図式で捉え、神話的なイメージとして直の存在感を浮かび上がらせるのはさすがです。

《坑夫》に対する二人の評価はきわめて高いのも印象的。いとうが大岡昇平の『野火』を想起すれば、奥泉はドストエフスキーの『地下生活者の手記』を引き合いに出します。風変わりな構造をもつテクストですが、いやそれゆえに、21世紀の読者に対しても世界の文学史の記憶を呼び覚ますような力をもつ作品とでもいえばいいでしょうか。

全編をとおして、奥泉が漱石作品の登場人物を覆っている独特の孤独感について言及している点は注目に値するでしょう。それは「他人と関係を持とうとし、コミュニケーションしようとするけれど、それに失敗してしまう者の孤独」です。漱石自身が感じていた孤独でもあるかもしれません。

そのように語り合ういとうせいこうと奥泉光の対話は、漱石の登場人物たちを反面教師とするかのように、豊かなコミュニケーションの成果を示してくれています。このような文芸漫談というスタイルが漱石文学を読むことの快楽を体現しているのです。

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