ゲンロン

これからの時代を豊かに生きていくために〜『観光客の哲学』

◆東浩紀著『ゲンロン0 観光客の哲学』
出版社:ゲンロン
発売時期:2017年4月

意表をついた標題がまずは目を引きます。観光客の哲学。これまで人文学的には注目を集めてきとは言い難い存在=観光客に着目して、さて東浩紀はいかなる哲学を差し出そうとしているのでしょうか。

21世紀の世界は、政治の層と経済の層、ナショナリズムとグローバリズムの層、国民国家の層と帝国の層……の二層構造で捉えられる。つまりグローバリズムが地球を覆い尽くしたわけでもなく、国民国家間の境界が溶解したわけでもない。──これが本書の基本認識です。それに連動するように政治思想面ではリベラリズムが失効して、コミュニタリアニズムとリバタリアニズムに分裂したと東は考えます。

そのような時代の新しい政治の起点として「観光客」の存在が重要になるというのが観光客の哲学です。
では観光客とはいかなる人びとなのでしょうか?

それは「特定の共同体にのみ属する『村人』でもなく、どの共同体にも属さない『旅人』でもなく、基本的には特定の共同体に属しつつ、ときおり別の共同体も訪れる」存在のこと。ここでいう「村人」とは国民国家に属する人びとであり、「旅人」とは帝国に生きるコスモポリタンのような人びとをさします。そのどちらでもない存在。換言すれば「帝国の体制と国民国家の体制のあいだを往復し、私的な生の実感を私的なまま公的な政治につなげる存在」といえます。

以上をまとめると、政治の層と経済の層、国民国家の層と帝国の層など二層をつなぐ可能性をもつのが観光客という存在なのです。そのような観光客的なあり方こそがこれからの時代において人生を豊かにしてくれると東はいいます。

観光客の哲学を考察するにあたって、東はアントニオ・ネグリ=マイケル・ハートの有名な「マルチチュード」を批判的に参照しています。「マルチチュード」はひらたくいえば反体制運動や市民運動のことですが、「かつての運動とは異なりグローバルに広がった資本主義を拒否しない。むしろその力を利用する」点に一つの特長があります。

ただしネグリ=ハートにはマルチチュードが世界を動かすことについての戦略性が欠けていたと東はみなします。そこで従来のマルチチュードのもつ否定神学的な性質とは対極にある「郵便」という概念を提示します。

……「郵便」は、存在しえないものは端的に存在しないが、現実世界のさまざまな失敗の効果で存在しているように見えるし、またそのかぎりで存在するかのような効果を及ぼすという、現実的な観察を指す言葉である。(p156)

東はそのような失敗を「誤配」と呼びます。現代思想は否定神学を脱して郵便的思考に生まれ変わるべきだというのが東のかねてからの主張でした。観光の本質は情報の誤配にあると考える東が「郵便的マルチチュード」と「観光客」を重ね合わせるのは当然の成り行きかもしれません。

本書では、上に記したネグリ=ハートだけでなく、他にも多くのテクストを参照しています。とりわけヴォルテールの『カンディード』やカントの『永遠平和のために』を独自に読み解いて観光客という存在につなげていくあたりは、なかなかスリリングに感じました。

そこからさらに第2部では観光客の哲学に対して家族の哲学という補完的な作業を付け加えています。「観光客が拠りどころにすべき新しいアイデンティティ」として「家族」が呼びだされるわけです。ここで家族という概念は「他者への寛容を支える哲学の原理」として検討に値するものと考えられているのです。

家族という手垢にまみれた概念を再起動させようとする東の企てには全面的には共感しえないものの、ドストエフスキー読解をベースにした批評的論考はアクロバティックな方法を採っていてなかなか読ませることは確かです。

言わずもがなのことですが、本書にいう観光客も家族もいずれも比喩的な概念です。けれども哲学上の理念モデルという域にとどまるものでもありません。たとえば現実に観光客という存在が世界に及ぼしている影響力は無視できないでしょう。

日本と中国あるいは韓国との関係はつねに深刻な政治的問題を抱えているが、相互に行き来する大量の観光客によって、関係悪化はかなり抑止されている。(p82)

観光のこのような機能はなるほどバカにはできません。世界中を闊歩する観光客は「祖国の体制とは無関係に平和に貢献している」存在といえます。本書の複雑で哲学的な考察もそうした事実に依拠していることが前半で述べられています。

近頃の東のネット上におけるアクチュアルな政治的発言には賛同できないものが多いのですが、本書に関しては読み出のある本だと思います。

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