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北信州・秋山郷に伝わる洗練の郷土料理 平椀【後編】

前編のあらすじ

  長野駅から車で2時間半の秋山郷。新潟県との県境に位置し、日本一の豪雪地帯と言われている。今回の旅は、料理研究家の横山タカ子さんと信濃毎日新聞の上野記者の取材に同行する形となった。訪ねたのは、民宿出口屋。マタギで生計を立てていた先代が始めた家庭的な宿。出口屋の2代目女将の福原桂子さんから話を伺った。

ご提供いただいた料理

● 葬儀料理

平椀(お膳に)
えご(取り回し料理)
きんぴら(取り回し料理)

● 平椀 ~共に生きることの意味も一椀に~

 平たい朱塗りのお椀から具がはみ出ている。蓋が閉まらない。それだけでごちそう感が漂う。蓋を開けて「わ!」と小さく驚きの声が誰からももれる。車麩がどーんと置かれていて下の具は見えない。車麩の輪の下からチラリとのぞくにんじん、車麩の輪からはみ出ている根曲がりだけの先っぽ。車麩の下ものぞいてみたい、そんな行儀の悪い衝動に駆られる。箸を借りて車麩をめくる。

だしをたっぷり含んだ車麩はずっしりと重い

 そこに現れたのは、6~7センチ長さの薄切りにんじん、結び昆布、半分に切ったごぼう。ごぼうはにんじんと同じ長さ。その下には布団が敷かれているように、厚揚げとこんにゃく。これらが綺麗に重ね上げるように盛られている。食材はどこにでもある質素なものばかり。聞けば、具はれんこんや生椎茸という時もあると言う。

 基本は1年中手に入る食材を使うこと。それが葬儀料理の約束の一つらしい。お椀と言うが、お汁がないのが特徴。しょうゆ、砂糖、酒、だしで薄味に煮るという。入れる具の数は、奇数と決まっていて、5種類か7種類となる。

 まず、椀の蓋を開けて、車麩を蓋に取り分ける。一口大に箸で裂いて、口に含むとジュワッとだしが口いっぱいに広がる。いろいろな味を吸っている。ごぼうとにんじんは本来持っている性分を控えめにとどめている。根曲がりだけは、シャキッとした食感が前歯に心地よい。細い芯に残るえぐみが懐かしさや里山の味を伝えている。期待が膨らむ厚揚げとこんにゃく。これはただものではない滋味深さがあった。しかも洗練されている。というのも、油の具合といい、大豆のコクも風味も申し分ない。こんにゃくは、普段買って食べるそれとは別物だ。歯切れは心地よく、ほのかに豊かな土の香りも残っている。ここで私はこんにゃくが好きになった。

 平椀の中の具はそれぞれが主張し過ぎることなく、互いに風味を生かし生かされている。なんということか。山里を味わう「本当の料理」が、秋山郷にあった。平椀の大きさは直径15センチ程。それいっぱいに盛られているからもちろん食べ応えは十分。私一人では到底食べきれないボリュームだ。 それもそのはず、そもそも平椀は、葬儀の時にその場で食べていく人もいるが、持って帰る人も多いという。

 自宅の仏壇に供えてから翌日下げてきて、ストーブの上に網を置いて焼いて、家族で食べるという。今なら魚焼きグリルかなと。桂子さんは、厚揚げもこんにゃくも手作りすると言う。それは特別なことではないそう。厚揚げは、自分の畑で収穫した大豆をゆでて豆腐をつくるところから始めるそう。なんと、こんにゃくもつくる。こんにゃく芋を畑で育て、そこからだ。

 桂子さんは、それを自慢するわけでもなく、「いつもやっていることだから・・・。」と言う。私にとっては、気の遠くなるような作業である。そして、桂子さんは「なんでもあるから。」と言う。こともなげに。自然の恵みを目の前におき、昔ながらの知恵を使って手をかけて、食すものを生み出すことの尊さが胸に響きズシンときた。自然の恵みを一椀に入れて供する。亡くなった人と今在る人をつなぐその一椀には、共に生きることの意味も込められているのかもしれない。

● えご ~昔の食の知恵が詰まっている~

 見た目は間違いなく水羊羹だ。

 食卓に黙って出されたら、食べるのは最後で、食後のデザートにと思うのは、この辺りの食文化を知らない人。「えごも食べてね。」と言われて、「え?エゴ?」って何?と、その料理名にも、???となる。でも、これは正真正銘のおかずなのだ。一口食べるとわかるが、甘くないから期待は裏切られ、目を見開いて驚く。


「うう、甘くない?!」


 えごのおすすめの食べ方を桂子さんが教えてくれた。辛子じょうゆでいただくとなんとも乙(おつ)な風味で、食感も独特だ。海藻臭さはなく、良い部分だけが残っている。味は特にないのが不思議で、歯ごたえが良く、ところてん的なのだ。噛むと磯の香りが口に広がり、辛子じょうゆと絶妙に調和をとる。なんとも新鮮な食べ物だ。

 これは、“えご”という主に日本海側でとれる海藻の一種を乾燥させたものを戻して、煮溶かして、流し缶で固めた長野県や新潟県などのごちそう郷土料理のひとつだ。大皿に綺麗に切って、盛り付けて供する。葬儀やもてなしの取り回し料理だと言う。長時間、食卓に出しておいても、ビクとも形が崩れることがない。地味な見た目だが、栄養的に大変優れた郷土料理だ。カロリーゼロで、食物繊維たっぷり。これこそ現代の食の救世主となりえる可能性を秘めている思う。海藻のえごは、青森、秋田、石川県産があるが、桂子さんは青森県産が絶対的に美味しいという。普段にはあまりつくらないと言うが、昔から海のない長野県の人たちが、保存の利く乾燥の海藻を食べ、栄養を取るために折に触れ、食べてきた料理であり、もてなし料理のひとつとして、今も伝わっている。

 郷土料理の知恵が、次世代にも伝わるには、食味の新鮮さがあると尚良いか。しょうがじょうゆなどはどうか、などと思ってしまう。帰り道、地元のスーパーに行くと、惣菜売り場で売られているほど身近な料理だ。しかし、桂子さんからおすすめされた青森県産のえごを探したが、なかなか見当たらなかった。それにしても、もし私が東京の家で再現して、家族が食べた時の顔を思い浮かべると、笑ってしまう。

● きんぴら ~安心できる味は記憶を紡ぐ~

 油で炒めただけなのに、味わい深いのがきんぴら。

 出口屋のきんぴらは、ごぼうとにんじんに、ヒラタケが入っている。味はしょうゆ、砂糖の甘辛味。最後の七味が風味を添えている。惣菜なのに、とても洗練された感じある。どうやってつくっているのかとても気になる。聞きそびれてしまった。きんぴらは平椀の箸休めで、これも葬儀の時に振る舞われる取り回し料理のひとつだ。

 安心感のある味つけで箸がとまらない。ごぼうの歯ごたえ、にんじんの歯ごたえが失われず、それぞれの味もしっかりあって、他に移っていない。ヒラタケがそこにアクセントとなる優しい食感を時々のぞかせる。口の中が豊かだ。葬儀の時このような、安心を生む料理が供されるとしたら、料理は人の記憶を紡ぐことになると思う。

● 郷土料理

早そば
夕顔の刺身

◯ 郷土料理 早そばと夕顔のお刺身~いのちへの敬意~

 早そばはその名の通り、早くつくれて早く食べられるそば料理で、秋山郷近隣に伝わる料理だ。「お腹がすいたときにすぐに食べられる。」ところから付いたそう。名付けの親は「信州学」の提唱者として知られる地理学者の市川健夫さんらしい。秋山郷に焼き畑の調査をするために何度も足を運んでいたころ(1950年代と思われる。『平家の谷-秘峡秋山郷』令文社、1961)市川先生が、「早そばだな、と言ったところから、その名前が知られたと聞いています。」と、民宿出口屋の福原桂子さんは言う。

 見た目はそばがきだが、食べてみるとシャキシャキとした大根のせん切りが潜んでいる。食べるたびにシャキッとした歯ごたえの、みずみずしい大根が、爽やかさを伝える。大根が、そばがきのネッチョリした食感を和らげる。“そばと大根”とは、前もっての相性も抜群だ。

 つくり方を伺った。 せん切りの大根をヒタヒタの水でゆでる。そこに溶いたそば粉を流し入れて、火を通す。一体となったら、できあがり。熱々を椀によそい、そばつゆをかけ、刻んだねぎ、わさび、のりを添える。春はわさびの代わりの葉わさびを刻んで添えるそう。

 「何でもあるから。」桂子さんはまた、その言葉をつぶやいた。わさびは山に、ねぎは畑にあるのだ。その味は、そばの香ばしさと大根の食感が交互に訪れて美味。薬味がそれを後押しする。食感と風味をここまで大切にする発想はどこから来るのだろう。完成されている。平家の落人たちが食していたのだろうか。そんなことに思いを馳せる。

 添えられたのは、今が旬の夕顔をつかった料理。夕顔は、冬瓜とよく似ているウリ科の野菜で、かんぴょうになることで知られているが、長野県ではかんぴょう作りをすることなく、実をおかずとして食べるそう。皮を厚くむいて透き通るくらいゆで、刺身のように短冊切りにして、美しく並べて盛るる。食べ方は辛子じょうゆか、わさびじょうゆ。
 
 一口食べると、口の中でとろける。時折、繊維を感じるがほとんど噛まずに飲み込めるほどだ。味という味はほとんどない。味に透明感があるって、想像してみると楽しい。 
 
 同行した横山タカ子さん(料理研究家)によると、夕顔は煮物としてよくつくるという。しかし、横山さんが秋山郷で見聞したかった夕顔料理は、「ゆうごう汁」だ。夕顔と塩漬けくじらを入れた汁物だという。塩漬けくじらが稀少品で値が張ることから、福原さんは断ったという。

 次回訪れることがある際は、こちらも見聞したい、いや、食べたい。それが本音。 郷土料理には、人を惹きつけて止まない力がある。あるものを工夫で生かし、家族や地域を養い続ける。そこには自然と芽生える「いのち」への敬意があると確信する。

 次回はさて、どちらに。五感を研ぎ澄ましておこう。


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