【旅行記】冷戦下(1986年)の東西ベルリン <第一部: ベルリンへ>1/4
ニューヨーク(2018年8月)
「ママにおみやげ」と渡された小さな箱を開けると、ちっぽけな灰色の瓦礫の欠片が入っていた。北イタリアの大学に交換留学中だった息子が、秋の気配が感じられるようになったニューヨークに帰省してきたのだ。取り出してみると、欠片には三角形のヘルメットを被った兵隊が駆け出そうとしている画像の切り抜きが貼ってある。その白黒写真は、私の遠い記憶を呼び起こした。それは、西側への亡命に挑んだ旧東ドイツの国境警備兵の命がけの跳躍を捉えた瞬間の画像だった。
「これって、まさか?」
と叫んだ私に、息子は得意顔で
「そうだよ、ベルリンの壁だよ!」
と答えた。イタリアが連休になった六月初旬に、ベルリンまで足を延ばしたという。
「これこそ資本主義の象徴だよ」
と笑っている。東西冷戦の象徴だった壁が、歴史的な崩壊を経て断片となり、それが商品化されているのだから、統一後のドイツには市場経済が随分したたかに浸透したものだ。三十二年前、絶望的な思いで見つめたあの壁の一部が、私の手のひらで転がっている。まがい物かもしれないと怪しみながらも、巡り合わせのようなものを感じずにはいられなかった。
第一部 ベルリンへ (1986年3月)
スイスからベルリンへ
大学卒業を目前に控えた一九八六年の春休み、私は山岳部同期で登攀パートナーだった美羽と共にヨーロッパを旅行した。一ヶ月有効のユーレイルパス(主要西欧諸国の列車の乗り放題パス)を購入し、気のみ気のままに列車を乗り継いで大陸を放浪したその旅は、社会人になる前の最後の悪あがき逃避行であった。
ベルリンのことが頭によぎったのは、旅の終盤、スイスの山岳リゾート、ツェルマットで、マッターホルン山頂を間近に仰ぎながらのスキー滑降を楽しんだ後のことだった。ツェルマットを後にして山岳地帯を走る氷河急行に乗りこみ、夕暮れと共に黒い影へと変わりゆくアルプスの山容を車窓から眺めていると、虚しさと寂しさがこみ上げてきた。
沈んだ気持ちになったのは、電気自動車と馬車しか走っていない幻想的な山麓で、大自然の美しさを感じるためにお金と時間をかけるヨーロッパ人の粋にあてられたせいもあったかもしれない。夜行列車で寝泊まりしているバックパッカーのくせに、目ざとく免税店を見つけてはブランド品に散財し、『ヨーロッパまで来たかいがあった』と興に入っていた自分が空虚に見えてきていた(ルイ・ビトンやグッチのバッグへの偶像崇拝は当時の女子大生にはお馴染みの現象だった)。氷河急行の基点であるブリーク駅に到着した時には、すっかり陽が落ちていた。スイス鉄道の本線に乗り換える気力もなく、今夜はそこで宿泊することにした。
駅のインフォメーション・デスクで予約してもらったペンションに荷物を置くと、食事に繰り出した。石畳と渋く古い建物が軒を連ねるブリークの旧市街地は、夜の外出禁止令が出ているかのように静まりかえっていた。ほのかな街灯だけを頼りに歩いていくと、ようやく営業中のレストランが見つかった。中に入ると、先客は鍋料理のようなものを優雅に食べている中年紳士ひとりだけだった。ドイツ語のメニューは全くわからなかったから、彼のテーブルを指さして同じ物を注文した。
二月初旬に旅を始めてから、かれこれ一ヶ月がたち、パリで帰国便に搭乗するまであと八日を残すのみだった。成田からパリに到着した足でドーバー海峡を渡った私達は、ロンドンを皮切りにアムステルダム、パリ、マドリッド、グラナダ、バルセロナ、ローマ、ナポリ、カプリ島、フィレンツェ、再びパリ、カンデルステグ(スイスの小さな村)と精力的に回り、観光ガイドと首っ引きで、名高い歴史建造物や美術品を片端から鑑賞してきた。念願だったアルプスでのスキーも無事に終わり、長距離列車で遠出をするのも次が最後だった。
純白のシャツに仕立ての良さそうな黒のベストとトルーザーに蝶ネクタイをつけたウエイターが、私達のテーブルに銀色に光る平たい鍋をセットし、料理の食し方を英語で教えてくれた。小さなレストランでも、きちんとした流儀で給仕する姿に、スイス人らしい生真面目さを感じた。教わった通り、一口大に切られたパンや野菜をフォークに突き刺して、鍋の中で煮立っているチーズに絡めて口に運んだ。白ワインに溶かされたチーズは、唇をやけどしそうな程熱かったけれど、限りなくまろやかで、食べる程に体も心もほぐれていった。私達はしばし言葉を交わすこともなく、このエキゾチックな鍋料理(今になって考えるとそれはチーズフォンデュだった)を貪った。
お腹が十分満たされると、自然と「次はどこに行こうか?」という話になった。ここまで行き当たりばったりの旅を続けていたが、不思議と次の目的地を決めるのに美羽と揉めることはなかった。お互いの好みを理解した上で、あうんの呼吸で譲りあってきたからだ。だが、この時はそうは進まなかった。まだ入国していないドイツに行こう、というところまでは容易にコンセンサスがとれたが、ドイツ随一の絶景を誇るハイデルベルグとおもちゃの街のニュルンベルクに行こうと切り出した美羽に、私はベルリンに行ってみないか、と返したのだ。スキー・リゾートの選択の時には、グリンデルワルト(アイガー北壁を望むリゾート)に思い入れがあった美羽が折れて、私が推したツェルマットに行くことに同意してくれたことを考えれば、次は美羽の意見を尊重する順番のはずだった。チームワークを乱したのは私の方だった。
日本から持ってきていたバックパッカー用ヨーロッパ旅行ガイドブックに、ベルリン観光のセクションがあり、西ベルリンから壁を超えて東ベルリン観光に行くことも可能である、と紹介されていた。それは、長距離電車での移動の時に、暇にまかせて隅から隅までガイドブックをめくっているうちに、何度となく眼にしたものだった。
当時のベルリンは、「ベルリンの壁」を境に、東ドイツの首都である東ベルリンと、米英仏の三国が統治する西ベルリンが隣り合っていた。一九六一年に、突然予告なしに東ドイツが建設したこの悪名高き壁によって、多くのベルリン市民が、家族や友人と引き裂かれたままだった。西ベルリンは、社会主義国・東ドイツに三六十度囲まれた「赤い海(社会主義圏)に浮かぶ自由の島」であり、正式には米英仏の占領地域でありながら、西ドイツの通貨や法律が適用されている極めて特殊な地域であった。
ガイドブックで見つけて以来、ベルリンのことは頭の端になんとなくひっかかっていたが、これが最後のチャンスだろうと思うと無性に行きたい気持ちが湧いてきた。民族分断の悲劇の象徴であり、冷戦の最前線である彼の地をこの目で見てみたいという思いは、私を大胆にそしてセルフィッシュにした。唐突な提案に戸惑っている美羽に、もし彼女が行きたくないのであれば、一人でも東西ベルリンを見てくると、私は言い切った。いつもは穏やかな美羽も脅迫めいた私の言動には納得できなかったようで、そういうことなら袂を分かち一人旅をすると言い出した。ここに来ての、まさかのチーム分裂の危機だった。チーズフォンデュには大量のワインが入っていたにちがいない。
翌朝目を覚ますと、美羽がベッドに腰掛けてトーマス・クックの時刻表(当時普及していたヨーロッパの鉄道時刻表)を眺めていた。私達は昨晩、その場の勢いで、六日後(帰国便の二日前)の正午に、帰国便・搭乗地のパリ、オペラ座前の免税店で待ち合わせをする約束までしていた。携帯電話もパソコンもなかったあの時代、ひとたび旅先で別れてしまったら、不測の事態が起こっても相手に連絡する術はなかった。一晩寝て目覚めてみると不安が募ってきて、「オペラ座で会いそびれたら、帰りの飛行機で再会ね」などと啖呵を切ってしまったことを後悔し始めていた。正直、西ベルリンから東ベルリンにひとりで突入するのは、アンザイレン(ザイルで体を結びあう安全確保)無しで岩壁登攀をするような心許なさがあった。やっぱり単独行動は撤回しようかと思った時だった。
「涼子(りょうこ)、私もベルリンに行くよ」
そう美羽がさらりと言った。その言葉を聞いて心底ほっとした。次の瞬間、迷いも不安も一気に吹き飛んでいた。
——二人一緒なら絶対にベルリンの壁を越えられる。
そう確信すると、東欧に向かう列車の始発駅であるバーゼルを目指し、ブリークを後にした。
大陸横断列車と東ドイツ国境警備隊
ブリークを早朝に出発し、どっぷり日が落ちた頃にバーゼル駅に到着した。コンコースの先に薄暗いホームがいくつも並んでいる様は、大きなターミナル駅の割に暗さが抜けない上野駅の広小路口を連想させた。構内の売店で、サンドイッチとリンゴと水を調達し、一七時五八分発 モスクワ行き[i]に乗車した。この夜行電車は、スイスから西ドイツを通って、東ドイツに入り、西ベルリン、東ベルリンに停車した後、ポーランドのワルシャワに寄り、終点のモスクワに向かう、東西両陣営を結ぶ大陸横断列車だった。乗車した時には混んでいた車内も、ハイデルベルグ、フランクフルトと停車するごとに、どんどん乗客が降りていき、コンパートメント(六人用個室)の中は私達だけになった。フランクフルトで、三十歳前後とおぼしき金髪女性が私達のコンパートメントに乗ってきた。彼女も西ベルリンに行くという。お互いの行き先だけ確認すると、私達はそれぞれに、就寝の準備を始めた。
その日の行動記録とおこずかい帳の記入と残り所持金の確認を終わらせると、座席のレッグレストを延ばして体を横たえた。これから東ドイツ領土に入っていくのかと思うと、気が高ぶって、ウオークマンを聞いても音楽に入り込めなかった。やがて照明が落とされると、窓の向こうの暗闇に吞み込まれるように眠りについた。
突然、外が騒がしくなり目が覚めた。時計をみると零時半を回ったところだった。列車は巨大な照明灯に煌々と照らされたホームに停車しており、靴音とドイツ語とおぼしき怒号が響き渡っていた。車内アナウンスはなかったが、外の様子から東西ドイツの国境であるベブラ(Bebra)駅に到着したことがわかった。軍服のような厚手のウールのコートに制帽姿の東ドイツの国境警備隊が、荒々しい声でどなりあっている。美羽が窓を凝視したまま囁いた。
「犬がいる……」
切符をチェックするついでのように、車掌さんがパスポートにスタンプを押してくれた西欧諸国間の国境越えとは訳がちがう[ii]。車両の下を嗅ぎ回る犬の鼻先を、若い兵士が懐中電灯を照らしていた。
やがて、乱暴にコンパートメントのドアが開けられると、年配の入国審査官がやってきて「パスポート!」とどなった。私は眠気まなこを必死で開いて、赤いパスポートを手渡した。旅券の写真と私の顔を照合すると、「よし」という調子でパスポートにスタンプを押してくれた。美羽にも同じことを繰り返し、私達の入国審査はあっけない程、簡単に終了した。ほっとしたのも束の間、入国審査官はここからが本番とばかりに、同じコンパートメントの白人女性からパスポートを奪い取るや、延々と質問を始めた。ドイツ語で話される内容こそわからなかったが、二人の間の緊張が伝わってきた。彼女の荷物検査が始まると私は言葉を失った。下着を含む全ての衣服から、小さな化粧ポーチの中味に至るまで、彼女の荷物はことごとく入国審査官の手で広げられた。彼女は、開け放たれたコンパートメントの扉から廊下に出ると、腕を組んで目の前で行われていることをじっと見つめていた。それは、沈黙の抗議のようで、とても威厳ある姿に見えた。私は寝たふりをしながら、何もおかしな物は見つかりませんようにと、ひたすら祈った。所持品を隈無くチェックし終わると、入国審査官は、書類に何かを書き込み、その紙と一緒に彼女にパスポートを返し、去っていった。
列車が東ドイツ領内に向けて動き出すと、向かい側の彼女が口を開いた。
「あなた達のパスポートの威力たるや、すごいわね? どこから来たの?」
この時ほど、菊のご紋の赤いパスポートを頼もしく感じたことはなかった。私は、二月初旬に日本を発って、ヨーロッパの主要都市を訪ねてきたことを一通り説明した。そして
「どちらの出身ですか?」
と聞くと、彼女は誇らしい表情で
「ウエスト・ベルリン」
と答えた。確かに、彼女が掲げて見せてくれたパスポート[iii] の発行元は、西ドイツではなく西ベルリンになっていた。西ベルリンの人達が東ドイツの国境を越えるには、いつもあんな嫌な思いをしなくてはならないのですか? そう彼女に聞いてみたかったが質問するのは憚れた。すると私の心の中を読んだように彼女は小声で言った。
「”彼ら”は、西ベルリナー(西ベルリンの人達の総称)が西ドイツに旅行することを少しでも面倒なものにしたいのよ。私達が東ベルリンやDDR[iv] (東ドイツの正式名称の略)に行く許可を取るのだって、西ドイツ人が同じことをするより、ずっと大変だしね」
私が「何故?」
と聞こうとする前に、彼女は目を閉じた。ここは”彼ら”の領内であることを思い出し、私も押し黙った。列車は一筋の光となって、次の停車駅、西ベルリンに向けて暗闇の東ドイツを走り抜けている。車窓にはどんな世界が広がっているのだろうと考えているうちに、また眠りに落ちた。
数時間後、怒られているように聞こえる車内アナウンスで目が覚めた。灰色の空の下、休耕期の農作地と森の間に、平屋で三角屋根の質素な住居が所々に見える。途中駅のホームを通過する時、一昔前のアノラックのようなジャケットを着た人達が電車を待っているのが見えた。
ーー彼らは職場へと向かう途中なのだろうか? 決して自分が乗ることはできない列車が通り過ぎるのをどんな気持ちで見送っているのだろう?
観光客の好奇な詮索だとわかりながらも、そんなことを考えずにはいられなかった。
車窓の風景が急に都会的になった数分後、列車は西ベルリンの玄関駅、ベルリン動物園駅のホームに滑りこんだ。
西ベルリン動物園駅
早朝六時半過ぎだというのに、西ベルリン動物駅はすでに乗客やら警備員やら野次馬のような群衆で混雑していた。駅の構内は浮浪者が寝ていたり、ゴミが至るところにあったりで、随分雑然としていた。その荒廃した雰囲気は、日本でも西欧でも感じたことのないものだった。まずは、インフォメーション・センターに行き、宿泊場所を確保し、東ベルリンへの交通手段を確認することにした。カウンターにいたジーンズにセーター姿の若い女性にお願いすると、すぐに電話を取り近くのB&B(Bed&Breakfastの略で朝食付ペンション)に予約をとってくれた。次に彼女は、東ベルリン国境のチェックポイントに向かう市電Sバーンと地下鉄Uバーンの路線図を広げた。東ベルリンまで、本当に普通電車で行けるのかを確認すると
「みんなが通勤に使っている普通の電車で、ここから二十分位よ」
と、そこらの観光名所への道筋を案内するような軽さで答えてくれた。
「宿に荷物を預けたら、さっそく今日のうちに東ベルリンに行ってしまおう!」
と、美羽と二人で勇み足になっていると、カウンターの女性は、
「国境であなた達がもらうのは、東ベルリンの日帰り観光ビザだから、必ず夜十一時五十九分まで西ベルリンに戻ってきなさいね。あと、東ベルリンから外には出ないこと。この二つは忘れないでね」
と、シンデレラのカボチャの馬車を出した妖精のように釘をさして、私達を送り出した。
ベルリン動物園駅から外に出ると、憂鬱な曇り空の下に、大きな古い教会が現れた。霧に隠れている上部に目を凝らすと、塔が途中で折れている。その痛々しい外観は、広島の原爆ドームを彷彿させた。一九四三年十一月のベルリン空襲で破壊された姿を、そのまま残したヴィルヘルム皇帝記念教会の旧教会堂鐘楼だった。一面の焼け野原から復興を果たした東京の街並みには、戦争の爪痕はほとんど残っていない。西ベルリンは、「戦争を知らない子供達」と言われて育った私達を、空爆被害の圧倒的物的証拠で迎えてくれた。
三月も半ばだというのに、大きなボストン・バッグを抱える手が悴み、慌てて手袋をつけた。日本の最北端よりも緯度が高いだけあって、どんどん体温が奪われるような厳しい冷え込みだった。予約を取ってもらったのは、シュプレー川沿いにある二階建ての小さなB&Bだった。住宅と見違えるような華奢な玄関ドアのベルを鳴らすと、母親くらいの年齢に見える女主人が笑顔で迎えてくれた。チェック・インをし、部屋に荷物を置き、暖炉のある部屋でコーヒーをご馳走になった。ここから東ベルリンに行くには、SバーンとUバーンのどちらが便利かを女主人に聞いてみると、人の良さそうな顔が微妙に曇った。
「数年前までは、Sバーンは東ドイツ(DR・東ドイツ国営鉄道)が運営していたから、西ベルリナーはボイコットして乗らなかったわ。今は、西ベルリン内の区間に限っては、西ベルリン(BVG・西ベルリン交通局)の運営に変わったけど、東ベルリン内はDRの運営のままだからねえ」
彼女はそう言って言葉を濁した。Uバーンなら東ドイツ領域も含め、全線BVG(西ベルリン交通局)が運営していると聞き、少々遠回りになるがUバーンで行くことにした。手軽に電車で東ベルリンに行けるようで、物事は意外と複雑だと思った。
(『第二部 東ベルリン』へ続く)
[i] Thomas Cook Continental Timetable, February 1986
[ii] 当時のEUでは国境でのパスポートによる入国審査があった。
[iii] 西ベルリンは国家でないためパスポートを発行することはできなかったため、彼女が持っていたものは厳密にはIDカードであった。(参考・West Berlin, Wikipedia, https://en.wikipedia.org/wiki/West_Berlin#Immigration)
[iv] 東ドイツの正式名称、Deutsche Demokratische Republik(ドイツ民主共和国)の略。欧州では、東ドイツはDDRと呼ばれることが多かった。
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【参考文献】
「ドイツ民主共和国」(2020年10月11日4:46 UTC)『ウィキペディア日本語版』https://ja.wikipedia.org/wiki/ドイツ民主共和国
Berlin S-Bahn (November 25, 2020, 21:10 UTC), Wikipedia, the free encyclopedia, https://en.wikipedia.org/wiki/Berlin_S-Bahn
Berlin U-Bahn (Nov. 8, 2020, 22:13 UTC), Wikipedia, the free encyclopedia, https://en.wikipedia.org/wiki/Berlin_U-Bahn#History
Berlin Wall (November 28, 2020、12:44 UTC), Wikipedia, the free encyclopedia, https://en.wikipedia.org/wiki/Berlin_Wall#Official_crossings_and_usage
Thomas Cook Continental Timetable, February 1986
West Berlin (Nov. 29, 2020, 12:19 UTC), Wikipedia, the free encyclopedia,https://en.wikipedia.org/wiki/West_Berlin#Transport_and_transit_travel
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表紙写真の出典:ImageBROKER.com Gmbh & Co. KG / Alamy Stock Photo
(撮影日時・Taken on 6/14/1988)
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