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【短編小説】Ambient:もともとは妻の地元で、これからは息子の地元になる。でも、ぼくの地元ではない。

かといってシルエットに知り合いの姿を見いだせるわけはなく、もちろん全員が他人で、つまりそれは帰り道の暇な15分をやりすごすための意味のない風景でしかなかった。

浮いた交通費で缶ビールを買ってマンションに着くと、妻はまだ帰っていなかった。義母がリビングいて、息子はソファでゲームをしている。
暖房がついているらしく汗が吹き出た。

「お父さん帰ってきたよ」

と義母が言うと、息子は「むー」という音を出して反応した。
20時を回っていたため、義母と息子に先に食事を摂らせ__と言っても、義母が作ってくれていた夕食なのだが__、ぼくは先に風呂に入って妻を待つことにした。風呂からあがると義母はすでに水色のストールを首に巻きつけていた。

「月曜日、また同じ時間に来ますからね」
「妻に何か言っておきましょうか? 最近いつも入れ違いになっちゃってるみたいなんで」
「いいのよ、言っておくことなんてなにもないんだから。・・・・・・、まあ、仕事ばかりしてないで、家にいる時間も大事にね、ってとこ? でも仕事のこと言うとあの子すぐ、・・・・・・ね。まあ、タイミングが合ったときに私から言うわ。むしろあなたの方こそ、なんかあったらなんでも私に言いなさいよ。遠慮しないでいいんだからね」

義母を玄関まで見送ってリビングに戻ると、息子はゲームをやめていた。ということは、なにか話したいことがあるらしい。

「宿題は?」
ビール缶を片手に、息子の隣に座りこむ。
息子は「あとでやるからだいじょーぶ」と言い、それから少しだけためらう素振りをみせたあと、
「あした、会ってほしい人がいるんだ」
と言った。そのとき、玄関のドアが開く音がした。義母が忘れ物を取りに戻ってきたのかと思うようなタイミングだった。
リビングに入ってきた妻はジャケットを脱ぎながら、
「あの人、もう帰った?」
と訊いた。
「また入れ違いだよ。ちょうどさっき帰ったとこ」
「ふう。間一髪ね」
「かんいっぱつ?」
息子が繰り返した。息子は愚かなのではなく、語彙がまだ少ないだけだ。

公園までの道は息子のほうが詳しかった。
もともとは妻の地元で、これからは息子の地元になる。でも、ぼくの地元ではない。
てっきり家族三人での「おでかけ」になると思っていたが、妻は持ち帰りの仕事があると言ってひとり家に残った。
昨日の夜、息子が教えてくれた僕らに会わせたいという人物についての奇妙な話を肴に、妻はワイングラスを傾けた。ぼくもうとうとしながら隣で話を聞いていた。

「それでね、木の枝を使って、地面に書いたんだよ」
「書いたって何を?」
「名前。ぼくが教えてって言ったから」
「なんていう名前だったの?」
「知らない。なんかごちゃごちゃした漢字」

大地に署名するなんてキリストみたいじゃないか、とぼくは思った。

「じゃあ、もっと勉強しないとだめね。読み方は教えてくれなかったの?」
「忘れちゃった。変な読み方だったから・・・・・・」
「じゃあ、明日会えたら聞いてきて」
「うん!」

公園の入口には小さな自転車がずらっと並んでいた。フレームにフレイムのシールが貼られた子どもらしい自転車を見る限り、ここは息子と同年代の子たちの溜まり場になっているのだろう。

こっちだよ、と先導する息子についていくと、小川のせせらぎが聞こえてきた。公園内を川が横切っているらしく、おそらくザリガニなんかも釣れるのだろう。この生態破壊種の力強さに憧れる子どもは多い。

「すぐだよ。もういるかなあ」

息子の話では、その人物は相当な変わり者のようだった。
いまどき、他人の子どもに声をかけることのリスクは計り知れない。変質者のレッテルというのは貼られやすく、剥がしづらい。

「すごい変な人だったどうしよう」

息子を子供部屋に寝かしつけてから、天井を使ってスカッシュのように僕は妻に疑念の言葉を放ち、妻はそれを打ち返した。

「大丈夫よ。世の中変な人ばっかりだから、今のうちに耐性をつけとくの」
「でも、変ないたずらとかされたら?」
「変なって、どんな?」
「それは、口に出せないようなことだよ」
「好きよね、そういう想像するの」
「好き嫌いじゃないよ。あの子が僕らの見ていない間に危険な目に合ってたらどうしよう、って思わない?」

妻がベッドの上で姿勢を変え、僕を見下ろすようにして言う。

「じゃあ、あなたが主夫になってあの子をずっと監視しとくしないね」
「そんな極端な」
「でもほかにどんな現実的な解決策があるの?」

そのとき、息子が僕のズボンを引っ張った。

「いたよ、あのベンチに座ってる人」

息子が指差す先にその人物はいた。木漏れ日の下のその姿を目にし、僕は奇妙にも一歩も動けずに立ち尽くしていた。
引っ張っても動こうとしない僕を見かねて息子は、「おじさーん」と言いながら、その人物の方へと駆け出していった。

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