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「すなわち、韻とは決して個々の詩行の組における対形成だけにおいて存在するものではなく、ひとつの作品の『全体の構成』のなかにもあるものであり、そしてさらにこれは散文作品にも当てはまる」

引用の意図は、それぞれの引用の足元を流れつつひとつにつながる伏流水の涼しい音色を感じることですが、今月の分量ではそれも難しいかもしれないです。付箋を付けたページを再び開いて引用文を書き出すことを、単に横着しています。
とはいえ、連関などなくても、それぞれが高い強度を持った言葉です。引用文がきっかけで誰かが引用元の文献を繙く誰かが生まれればそれでOKです。

ドイツロマン主義の文学作品が本屋でほとんど手に入らない状況はもどかしいですね。
世界中の同時代性が、インターネットのない時代のほうが豊かに思えるのは不思議です。同時代性を感じるためには、あくまでも歴史の連続性が必要なのだと思います。単に、みんなで仲良く似たようなことを書くというのとは違うらしいです。


その劇のもっとも奥深い魅力はしかし、その劇に酔っている者の眼から、怖るべき社会的現実が消え去ることはない、という点にある。かれはなお現実を意識している――ちょうど、酔っぱらいが現実の状況を「まだ」意識しているように。

ボードレール 他五篇, ヴァルター・ベンヤミン著, 野村修編訳, 岩波文庫 p,205, p.206

霊界の数知れぬ人むれは、ユゴーにとって、何よりもまず聴衆プープリクムだった。そういえば謎は解けてくるだろう。かれの作品に降神術のモティーフが現れることは、かれがつねに心霊たちをまえにして書いたことと比べれば、奇異ではない。

同上 p.213

バルザックとボードレールは、この意見をもってロマン主義と対立する。かれらは情熱と決断力に輝きを与え、ロマン主義は断念と献身に光を添える。

同上 p.229, p.230

詩人たちは社会の屑を街頭に見いだし、まさにその屑にヒロイックな題材を見いだす。こうしてヒーローという高貴なタイプのなかへ、低俗なタイプが、いわば写しいれられる。そこに浸みこんでいるのは、ボードレールが終始関心を抱きつづけた、屑屋の特徴だ。

同上 p.238

全知全能の神は、人間と自然の上に完全に超越して存在しており、自然の中に内在することはない。また、自然は神の秩序を反映することはあっても、神と同質のものではなく、同じように、人間は神が『御自分にかたどって』創造した(『創世記』一、二七)ものであるから、人間と別の過程で創造した自然とは同質ではないし、自然の一部でもない。
 このことから、キリスト教世界では、自然を『他者』あるいは『外のもの』とする認識が生まれる。自然は『外のもの』であるから、距離をおいて自然を客観的に眺められ、知的興味の対象になることを意味する。

イギリス庭園の文化史 夢の楽園と癒やしの庭園, 中山 理, 大修館書店 p.20

楽園「パラダイス」の語源

古代ペルシア語「パイリダエーザ」

ヘブライ語「パルデース」に派生

ギリシア語に翻訳される際に「パラデイソス」に

「パラダイス」

魔法の庭園について

「なぜ魅惑的かというと、エデンの園と見まごうばかりに美しく、外見上の区別はほとんど無いに等しいからである。エデンの園の住人がイヴであったように、この庭園の支配者も女性だが、キリスト教の系列には属さない」

同上 p.56

カンタベリー物語に登場する庭園に飾られる彫像の神について

まず、プリアポスは、古代ギリシアやローマの庭園によくその彫像が飾られており、果樹園やブドウ園などの庭園の神であると同時に、小さな体に巨大な男根をつけた乱交の神でもある。
つぎに、別名ハデスとも呼ばれるプルートー(『富めるもの』の意)は、プロセルピナを略奪した冥界の神である。

同上 p.65

私の父は名をオーギュスタン・ムトノといい、母はオーロラ・ムトノという。母は結婚前はオーロラ・オウィラビーという、まるでメレディス[英国ヴィクトリア朝後期を代表する作家]の小説のヒロインのような名前だったが、単にそういう名前だったにすぎない。ともかく彼女には貴族の血など一滴も流れていない、というか、少なくとも私の考えでは流れていない。貴族の血なんてものが入り込むとすれば婚姻を通してしかありえないが、そんな血統書付きの人間が、よりにもよってうちの母方の家系と姻戚を結ぶなど、仮定としてすら検討に値しない。

マッコルラン・コレクション 黄色い笑い/悪意,
ピエール・マッコルラン著, 中村佳子・永田千奈訳, 国書刊行会
p.7

→すばらしい第一段落。。

バラックの中へ入ろうとしたとき、またあの音が、板塀の向こうから沸き起こった。見世物小屋に集まった何千という観客が一斉に笑ったような轟音が鳴り響いた。
『あれがなにかおわかりでしょう』軍医は私たちを横目で観察しながら言った。『……中に七千います。みんな感染しています……いいですか、七千人ですよ。ここ数日で少なくとも二千人が死んだでしょうな……もう衛生官も兵士もほとんど残っておりません。崩壊は時間の問題でしょう』
笑いがふたたび沸き起こり、徐々に数が減り、まばらな笑いとなって、最後に完全に消えた。私たちは耳を塞いだ。

同上 p.119,120

巨大な、息の詰まるような、これまで体感したことのなかった静寂が、風景の中に漂っていた。そしてその巨大な死体の山からは、むかむかするような腐臭が立ちのぼり、何千という肉を食らう鳥たちがそこで食事を摂っていた。この年はカラスもコクマルガラスもメロンのように丸々と肥えた。そのくちばしからは、薔薇から薔薇の香りがするくらい自然に、腐った肉の匂いがした。胸がむかむかして、カラスの群れに向かって何発かぶっぱなした。カラスたちは、こちらを嘲るように、ほんの数メートル先にいかめしく佇んでいた。我々の肉を狙っているらしい。その不躾な無神経な首の動きに屈辱を覚えた。

同上 p.122,123



民謡の分野におけるパラレリズムの再発見は、ロシア・フォルマリスムという名でよく知られている芸術詩理論として発展を遂げた。ヤコブソンの『ロシア現代詩』(一九一九)は「文学性」を人為的二重化の操作、つまり対句、同義語、音位転換、脚韻などによって規定している。未来主義はこのような『操作』を、『大幅に意味拘束から開放することによって』『露呈』する。

無限の二重化 ロマン主義・ベンヤミン・デリダにおける絶対的自己反省理論,
ヴィンフリート・メニングハウス著, 伊藤秀一訳 p.13

パラレリズムの理論とはそれゆえ、それ自身が同時に差異性の理論でもある。それは、詩的言語と日常言語の区別をつける近似性や肯定的模倣性の減少の優勢にもかかわらず、というよりまさにそれゆえに、差異性の理論なのである。

同上 p.18

シュレーゲルが「ギリシャ文学研究論文」で否定的だった押韻を、一転して肯定するようになった理由は、

すなわち、韻とは決して個々の詩行の組における対形成だけにおいて存在するものではなく、ひとつの作品の『全体の構成』のなかにもあるものであり、そしてさらにこれは散文作品にも当てはまるものだ、という発見である。

同上 p.23

それどころか彼は、引用における省略は『当然のことながら断章の意味に変化が加わらないように行われた』とさえ主張している。この『当然のことながら』という注釈が単なるアカデミズムの義務によるものなのかどうかはさておき、これはベンヤミンのテクストを見ていくと幾度も、そしてしばしばかなりひどい虚偽であることがわかる。

同上 p.30

『絶対者』、すなわち知性の無制限の行為は、いかなる事物的存在に対しても正反対のものであり、限定された対象としては決して把握できないものである。しかし反省がどこに向けられようと、その場所はすでにその事によってひとつの対象となるのである。

同上 p.37

認識における『自己把握』が同時に『自己破壊』であるというこの洞察は、フィヒテを反省の拒絶にではなく、その限界意識における反省の『実行』へと導く

同上 p.38

ノヴァーリスはひとまず次のような答えを考えた。『学ばれるものは学ぶものとは別物であるはずである。学ばれるものとはひとつの対象である。それゆえ学ぶものは対象ではない。とすれば、哲学はひょっとしたら学ぶものと取り組むことができないだろうか。対象を学ぶわれわれ自身と。』しかしながらノーヴァリスは、この考えを次のような理由ですぐさま放棄した。『自己考察』においては『学ぶもの』自身が『学ばれるもの』に代わって『対象』になってしまい、非対称的な哲学の要請は結局満たされぬままに終わるというのである。

同上 p.89

もし絶対者が絶対的同一として理解されるなら、『反省によって、至高者に実定的に到達することの不可能性』が成り立つことになる。なぜなら反省とは、常に『二元論の遊動』を展開するものであり、それゆえに『いたるところで神話的なものを形成する無作用点の掌握』には役に立たないものとされるからである。

同上 p.93

超越論的シニフィエ――絶対的で自己現前的で言語を持たない存在および内容――のこのような脱構築の結果、当時はむしろ蔑称でさえあった表出的トポスがひとまずその価値を転じ、評価されるようになった。修辞である。修辞はまさに『本来的な意識芸術』『ソフィスト的な哲学の尺度より(・・・)ずっと無限大に高次なもの』となった。

同上 p.101, 102

鑑別的省察を施しつつ、ノヴァーリスは、一見するともっとも紛れのない自己同一性の表現のように見えるもの(a=a)の中に、すでに自己自身における二重化によってこの同一性を分裂させる差異を発見している。Aが自己に対して単に述語となることが、すでに賓辞の周囲に組織される差異的『パラレリズム』となる。

同上 p.110, 111



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