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「ただ彼女は、そうした啓蒙主義的な人間観、つまり人間機械論に不安を抱いていた。」

脳汁の出た文章を引用させていただきます。
これを読む人に脳汁湧出の契機を。

ただ彼女は、そうした啓蒙主義的な人間観、つまり人間機械論に不安を抱いていた。彼女は科学による、神をも恐れぬ人工的生命の創造が「恐ろしい結果を招くに決まっている」と断言する『フランケンシュタイン』はいうなれば、反啓蒙主義的な立場から書かれた、科学者のファウスト的野心が招く悲劇を描いた寓話なのだ。

ゴシックの解剖 暗黒の美学, 唐戸伸嘉

それは過剰ともいえる身体への関心だ。フランケンシュタインの怪物はグロテスクな身体の神話的モデルを提供し、現代のゴシック・カルチャーにおいて熱狂的に受け入れられている身体改造(モディフィケーション)のひとつの起源をなしている。身体改造とは、入れ墨やボディ・ピアスのための穴あけから、金属のインプラント、身体の切断や切除までを含む、身体を意図的に傷つけたり、変形させたりする行為だ。

同上

→サイバーパンクにおける身体改造フェチとのつながり。たとえば、チャイナ・ミエヴィルでは人体工学ではなく魔術に変換される。
(インスタ美学に基づいた)整った形への整形と、人間から意図的に離れた異形への変形という、異なる志向。前者は「ボディメイク」などと呼ばれ度を越さない限り比較的正常な欲望とみなされる。後者は正常ではないとされる。それほど明瞭な分割線があるだろうか?

犯罪学者チェザーレ・ロンブローゾが「犯罪者の多くは野獣的な過去が彼らのうちに蘇るために生物学的強制によって行動する」と考え、「サル的な形態――後退した前頭部、突きでた顎、長い腕など――という”兆候”によって、”生まれつきの犯罪者”を識別」しようとしたことは有名だ。

同上

近代において「私」は聖域となった。そのような近代のイデオロギーに『ドラキュラ』は揺さぶりをかける。「私」という聖域にして不可侵な場所へ閉じこもった近代人に、それが単なる思い込みであると警告する。吸血鬼はやすやすと人の内部に侵入し、アイデンティティを奪い、私たちを恐怖させる。

同上

「こいつは面白い、早くその願というものを聞きたいもんだ!」と綿貫がその髯《ひげ》を力任かせに引《ひい》て叫けんだ。
「今に申します。諸君は今日《こんにち》のようなグラグラ政府には飽きられただろうと思う、そこでビスマークとカブールとグラッドストンと豊太閤《ほうたいこう》みたような人間をつきまぜて一《ひとつ》鋼鉄のような政府を形《つく》り、思切った政治をやってみたいという希望があるに相違ない、僕も実にそういう願を以ています、しかし僕の不思議なる願はこれでもない。
「聖人になりたい、君子になりたい、慈悲の本尊になりたい、基督《クリスト》や釈迦《しゃか》や孔子《こうし》のような人になりたい、真実《ほんと》にそうなりたい。しかしもし僕のこの不思議なる願が叶わないで以て、そうなるならば、僕は一向聖人にも神の子にもなりたくありません。
「山林の生活! と言ったばかりで僕の血は沸きます。則《すなわ》ち僕をして北海道を思わしめたのもこれです。僕は折り折り郊外を散歩しますが、この頃の冬の空晴れて、遠く地平線の上に国境をめぐる連山の雪を戴《いただ》いているのを見ると、直ぐ僕の血は波立ちます。堪《たま》らなくなる! 然しです、僕の一念ひとたびかの願に触れると、こんなことは何でもなくなる。もし僕の願さえ叶うなら紅塵《こうじん》三千丈の都会に車夫となっていてもよろしい。
「宇宙は不思議だとか、人生は不思議だとか。天地創生の本源は何だとか、やかましい議論があります。科学と哲学と宗教とはこれを研究し闡明《せんめい》し、そして安心立命りゅうめいの地をその上に置こうと悶《もが》いている、僕も大哲学者になりたい、ダルウィン跣足《はだし》というほどの大科学者になりたい。もしくは大宗教家になりたい。しかし僕の願というのはこれでもない。もし僕の願が叶わないで以て、大哲学者になったなら僕は自分を冷笑し自分の顔《つら》に『偽《いつわり》』の一字を烙印《らくいん》します」
「何だね、早く言いたまえその願というやつを!」と松木はもどかしそうに言った。
「言いましょう、喫驚《びっくり》しちゃアいけませんぞ」
「早く早く!」
 岡本は静に
「喫驚《びっくり》したいというのが僕の願なんです」
「何だ! 馬鹿々々しい!」
「何のこった!」
「落語《おとしばなし》か!」

牛肉と馬鈴薯, 国木田独歩
https://www.aozora.gr.jp/cards/000038/card323.html

「もう止《よ》しましょう! 無益《だめ》です、無益《だめ》です、いくら言っても無益《だめ》です。……アア疲労《くたびれ》た! しかし最後に一ごんしますがね、僕は人間を二種に区別したい、曰《いわ》く驚く人、曰く平気な人……」
「僕は何方《どちら》へ属するのだろう!」と松木は笑いながら問うた。
「無論、平気な人に属します、ここに居る七人は皆な平気の平三《へいざ》の種類に属します。イヤ世界十幾億万人の中《うち》、平気な人でないものが幾人ありましょうか、詩人、哲学者、科学者、宗教家、学者でも、政治家でも、大概は皆な平気で理窟《りくつ》を言ったり、悟り顔をしたり、泣いたりしているのです。僕は昨夜ひとつの夢を見ました。
「死んだ夢を見ました。死んで暗い道を独《ひと》りでとぼとぼ辿《たど》って行きながら思わず『マサカ死《しの》うとは思わなかった!』と叫びました。全くです、全く僕は叫びました。
「そこで僕は思うんです、百人が百人、現在、人の葬式に列したり、親に死なれたり子に死れたりしても、矢張り自分の死んだ後《あと》、地獄の門でマサカ自分が死うとは思わなかったと叫んで鬼に笑われる仲間でしょう。ハッハッハッハッハッハッハッハッ」
「人に驚かして貰《もら》えばしゃっくり[#「しゃっくり」に傍点]が止るそうだが、何も平気で居て牛肉が喰《く》えるのに好んで喫驚《びっくり》したいというのも物数奇《ものずき》だねハハハハ」と綿貫はその太い腹をかかえた。
「イヤ僕も喫驚《びっくり》したいと言うけれど、矢張り単にそう言うだけですよハハハハ」
「唯《た》だ言うだけかアハハハハ」
「唯だ言うだけのことか、ヒヒヒヒ」
「そうか! 唯だお願い申してみる位なんですねハッハッハッハッ」
「矢張り道楽でさアハッハッハハッ」と岡本は一所《いっしょ》に笑ったが、近藤は岡本の顔に言う可からざる苦痛の色を見て取った。

同上

→理想に破れた男たち。都市の喧騒を離れ、自然のなかでのサバイバルに人生の意味を見出そうとしたが、現実の過酷さに直面して転向、快楽主義の現状。馬鈴薯と牛肉はそれらの象徴。岡本は彼らのなかでひとり、別の願いがあるといい、平凡なロマンスをわざわざ否定してから、その願いとは「驚きたい」というものだと言う。自分を含め大概の人々は驚くことがなく、自分が死んだときに「まさか自分が死ぬとは」と驚くだけ。つまり、死ぬまで「驚く」ことができないほどの鈍さ。


ジャック・モーデュイ氏はまたこう書く(『現代芸術の四万年』)「芸術は、原始人が目の前でおきた岩石事故と、その直前に目にした動物とのあいだに、最初の抽象作業によって結びつきを打ちたてたとき、その原始人の胸を締めつけた深い感情からうまれた」

魔術的芸術, アンドレ・ブルトン, 巖谷國士/鈴木雅雄/谷川渥/星埜守之 訳 

こちらはあまり知られていないが、花々の色あいを青(シアニン系列)と黄(キサンチン系列)との根本的対立を中心として分類する、19世紀の植物学者たちのやり方が存在する。これら二色は、(赤と緑が「こもった」色彩であるのに対して)もっとも「輝かしい」色彩なのであり、そして植物にあっては、化学的に見て両立しない色素によるものだというのである(カンドール『植物生理学』、クーパン『原生植物』)

同上

→植物のイエベ、ブルベ。砂漠と湖。

→唐宋の中国の詩人にとって、アンソロジーを編むという行為には大きな意味があったという。一編のアンソロジーは詩人自身の沈黙のうちに秘めた価値観・思想を雄弁に語っているのであるから。
有名作家との抱き合わせる商業主義的編集や、若いうちにこれだけは読んでおけという教養主義的な趣味の悪い編集とは異なる。一貫した好みに基づく編集こそ。

→サイバーパンク:エッジランナーズ
サイバーサイコシスは新自由主義経済の被害者であり、消しきれない人間性に苦しめられているもっとも「人間らしい人間」では?
経済・能力格差の拡大するネオリベ社会に、初めから存在しないがゆえに永遠に終わることのない郷愁が共存している。そこに慢性化した物質的快楽が加わる。パンクの精神は表層にとどまり、失敗の美化、英雄化によって、子どもはわけもわからず宇宙的多幸感の中で失神する。

三島由紀夫「天人五衰」
→運命が「ない」ことを「否定」するために、その「ない」が明らかになる前に自ら死を選ぶ。死により、訪れなかった運命は明らかにならず、宙吊りになる。こうして、運命は守られた。ただ、シニカル。

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