生きること、学ぶこと
日本の高等教育はいつも「遅れてきた青年」でよいのか?
船守美穂氏(国立情報学研究所)は異色の経歴を持つ教育者である。ドイツ・ギムナジウで学び、音楽家をも志す。帰国して、東大地球物理学で修士まで学ぶが、今は情報社会相関の研究をしている。そしてときどき、好きなヴァイオリンのコンサートをやる。
船守氏が「主体的学びと学びの社会性」という切り口で、cMOOCからMOOCそしてオンライン教育の次の展開、コンピテンシー•ベースド教育とパーソナライズド/アダプティブ教育の流れについて米国の動向と日本の向かうべき課題について講演した。
米国でMOOCが騒がれていたのが2012年、2年遅れて日本にやってきたが本家では既に沈静化して10年過ぎた。元々x MOOCは、元祖MOOCのc MOOC(Connectivist MOOC「デジタル時代の学習理論」:講義形式とオンライン形式などを組み合わせて想像的学修を高めるエキソノミー)とは全く考え方が別のものであった。X MOOCが期待を裏切ったとは言え、何でもやってみようの米国ですからオンライン教育に新たな投げかけをもたらしたことは事実である。そもそもオンラインだけで教育ができる訳はありません。デジタル化は受け入れつつも、人と人が繋がる教育にICTの活用される方法はしっかり考えていかなければICTを使える教育設計をしているというような本末転倒になってしまいます。
DXも同じである。Society5.0を声高々に掲げ、その戦略として全てをDXという社会全体の活動に繋げようとしたが、これも上手くはいっていないと言う。船守氏は、1)情報のデジタイゼーション、2)産業や社会のデジタライゼーション、3)社会のデジタルトランスフォーメーション(DX)という通説に、特に後二者の区別が漠然としていることを考えて、自らの定義をする。
「DXの第1段階は、物理世界のワークフローがオンラインに単に移行します。これをDX①とします。DXの第2段階は、DX①に、デジタルの特性で可能となる機能を付加したものです。この機能は物理世界では存在しない機能です。これをDX②とします。DXの第3段階は、物理世界には存在しないサービスやワークフローが可能となったものです。これはDX①やDX②との連続性はなく、新たなイノベーションとして生まれます。これをDX③とします。しかし、DXの掲げた高いヴィジョンにもかかわらず、今のままだと、一時のKWレベルの流行に終わり、同じ運命をたどる可能性が高いように思います。」
船守氏の慧眼は次のことにあると考える。「日本の高等教育はいつも「遅れてきた青年」でよいのかと?」いう論点である。
大学教育までがMOOCや反転授業という(米国の)トレンドで右往左往しているのは止めましょうと。米国と日本のバックグランドも違いますし。その中身を見て行くと従来から試行錯誤している授業内容やコース設計を組み合わせて特徴づけているのであり、全く新規なものではないという冷静な考えが必要である。DXもデジタル化で遅れに遅れたための輸入品である。
「大事なのは、技術や誇大妄想に振り回されるのではなく、人間社会のニーズをきめ細やかに見極め、デジタルの世界で人々のニーズを満たすサービスを丹念に開発していくことのように思います。地に足の着いたDXが、日本において今度こそ実現していくことを切に願います。」(船守)
船守氏のメッセージは、W.E.B.Du Boisの「教育の役割は、人を医師、弁護士、技師にすることではない。教育の役割は、医師、弁護士、技師を人にすることである。」
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