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自己成長は環境か自身か。

ものさし

 自分の箸の持ち方はどうだろう?右に汁物。左にご飯。上に主菜や副菜。これは日本人の常識である。いただきます。ごちそうさま。ありがとう。ごめんなさい。礼儀礼節はしっかりしている?褒めて育てられた?いつも怒られていた?

 生まれてきた「環境」によって左右されることってたくさんあった。町を歩いていてもスーパーにいてもお母さんに頭叩かれている子供を何回も見た。電車の中でかまってもらえない子ども。子供の頃に教えてもらったことがその人の当たり前になる。そうなんだ、子供って親という「環境」を選べないんだ。

 そこから小学生になる。まだ違いってわかんない世代だし、環境なんて考えてこなかった。今思うと、本当に恵まれた環境にいたと思う。小学4年から6年まで同じ担任の先生だった。今では考えられないけど手を出すし、怒鳴り散らす。(女の先生)でも、めちゃめちゃ愛に溢れてた。

 中学生になる。たくさんミスを犯した。親を呼び出された。本当に親には迷惑をかけたと思った。生徒会に入って体育委員長にもなった。素手でトイレ掃除もした。あの時が僕の分岐点だったんじゃないのかな、と今振り返ると思う。

 高校生になる。僕は体育科という科で本当に軍隊みたいな学校だった。カルチャーショックって言葉を初めて感じた瞬間だった。怒鳴り散らされる。体育館入出時は礼をしてから。先生がドアに向かって歩くと即座に開けに行く。挨拶はカバンをおろして。そんな感じだった。

 だからみんなすんげえ志高くて、目指してるものがあって、自分の専門分野のスポーツに打ち込んでた。最高の仲間だった。卒業する時にはこいつらとまた何年経っても会うんだろうな。そんな思いで卒業した。

 変化。

 おかしい。おかしいんだ。あんなにスポーツに向き合ってた高校時代のみんながなんか変わってんだ。部活はどうしたよ。なに遊びに逃げてんだよ。あの頃のギラついた目つきはどこいったんだよ。あの頃のみんなの輝きとか、尊敬できる気持ちってのはどこかに行ってしまったんだ。

そうなんだ、ただ枠に収まってただけだった。

 確かに高校での環境によって成長したかに思えた。しかし、それは一時的なものであった。大学生になって、拘束から解き放たれるとその人の本質が顕著に現れる。あの時の真剣な顔つきはどこ行ったよ。前ならえしてただけかよ。そんなふうに思った。

 ちょっと強気に出るけど少なくとも、僕は大学生になっても自分の信念を曲げた事はない。自分はどうなりたくて、どこを目指してて、『久木元大海』ってなんなのか。どうあり続けたいのか。常に考えてた。グランドにも礼をして入った。トイレのスリッパも並べた。落ちているゴミも拾った。

 大学生という自由度が増す中、どれだけ自分の行動、言動に責任を持てるかってことがまじで大事なんだと気付き実行した。そんな中、サッカー部という同じ環境にいた人でも変化に大きな差があった。逃げてしまう奴もたくさんいた。

物事の根幹

 小学校の担任の影響。中学生でのたくさんのミス。分岐点。高校時代であんな厳しい環境にいたらそりゃ変われるって。
 僕も初めは環境によって自分は変化するんだって思ってた。

 でも、大学時代、同じ環境(サッカー部)にいた人が何人もいたのに変化できなかった人がいたのはなんでなんだろう?
 人間が変化するのは、自身か環境か。問題について考えた時にようやくたどり着いた。

自分を変化させるのは『自分自身』なんだってこと。
自分の心が行動しなかったら変化って生まれないってこと。

 自分がどれだけ志高く居れるか、軸をぶらさないで居られるか、熱い気持ちを持ち続けられるか。どれだけ固定概念に捉われないで柔軟な心を持ち続けられるか。

 矛盾してない?って思うかもしれないけど、これはまじで言語化することが難しくて、空想とか仮説を説くよりも複雑で難しい現実の話なんだ。

 だから、自分の感性もっともっと磨いていかなきゃ。自分を変えれるのって誰だよ。自分自身だろ。環境が悪いなら変えればいい。おかしいと思えば発信すればいい。

 優れた環境に居ても腐るやつは腐る。でも、今、自分でいい方向に変化できてるって思っている人は環境のおかげだと思うかもしれない。違うんだ。その環境にいて自分を変化させることができたのは自分自身なんだということ。

常に進化し続ける。もう一人の自分に問いかける。


注)今回の内容は完全に僕の実体験によるものなのでおかしいんじゃない?っていうところが多々あったと思いますがご了承ください。私はこうだと思うって方居たらご意見待ってます。

自分の名前で生きて行く。大海が居るから大丈夫。がコンセプトです。将来起業し、自分のマインドをたくさんの方に伝えていきたいと思っています。 よろしくお願いします。