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悟りたかった私。永遠を知りたかった私。

最近ね、気が付いたんです。

1.最近気が付いたこと



「あ、私、悟りたかったんだ。」

って。
覚醒したかったんだ。って。

こう言っている一方で、
「今更何言ってるねん」って、笑っている私がいます。

それはきっと魂レベルの私で、その領域からすると
「最初から皆、悟ってるのにね。」って、クスって笑っちゃっているんです。
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2.子供の時からの体験

私は子供の時から
何度も不思議な体験、体感を繰り返し経験してきました。

幼少期の時から感じていた感覚としては、
お風呂場で服を脱ぎ、裸の状態になっているのに
「まだ脱げていない」と感じていた感覚。

それがなんとも心地悪くて、ムズムズする感じで、裸なのに裸じゃない、
まだ何かを着ている感覚。
でも、実際は裸だし、とても気持ちが悪い。

この感覚は誰に話してもわかってもらえなかったし、
実際自分でも、何がこんなに気持ち悪いのかわからずに
ただそのむずむずするような心地悪さを受け入れるしかありませんでした。

◆そう、当時は
【『肉体』を着ている自分】という事に気が付いていなかったから。

もっと言うならば、

◎肉体を超えた魂/意識である存在が
《肉体》という《形》として現れ、表現されている。

◎形のない、目に見えない本質的な根源の存在が
《肉体》という形を通してまるでその中にいるかのように、

もしくは肉体そのものであるかのような顔をして
目に見える形になっている

という事に、気が付いていなかったから。

でも、感覚では、知っていた。
もともと、知っていた。

それを体感が覚えているから、身体で知覚しているから、
それを私の『気づき』の上に浮かび上がらせようとして
教えてくれていたのだと今はわかるんです。
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3.永遠とはどういう事か、知りたかった。


また、小学3年生の時にはこんな事もありました。

金属板に、点々で何かを彫り込んでいくという工作系の授業で私は、
『永遠』という字を刻み掘りました。

他の工作の授業については何も覚えていないのに、
あの、金属板にひとつひとつ点を打ち堀り点をつなげる形で
『永遠』
という言葉を作っていく過程に没入し、
そして、完成した時にはこの上ない満足感を感じたあの時の感覚を
ずっと忘れられずにいたのです。

小学校3年生。
『永遠』なんていうものの意味さえも、知らずにいた歳なのに。

その後、「世の中には永遠なんてない。」と思ったり、
「すべてのものは変化していくよね」と考えたりしながらも、
あの金属板の言葉がずっと頭の隅に存在していました。

永遠とはどういう事か、知りたかった。

一方で、あの、掘る作業をしている時は「永遠」そのもののでした。
そこに没頭、没入している私はまるで「永遠」の中にいたのです。

そう、ここでカンの良い方は気が付かれたかもしれませんね。


◆《今》という《この瞬間》
◆《この瞬間》という《今》
◆永遠は、《今》という《この瞬間》にある、

ということに。

時間軸を平面に横に見て
そこに永遠を見出そうとするとこれはわからない感覚かもしれないのですが、
当時の私がその瞬間瞬間、すべての瞬間に『没入』しながら文字を掘っていた時、そこには『永遠』の感覚がありました。

横軸で考える時間軸は、そこにはなかった。

その《瞬間》《点》が既に永遠で、
そこに没入している意識には過去も未来もなく
遥か彼方まで深まっていく深遠な《永遠》の《瞬間》のみが存在していたのです。

更に面白いことに、
それを、『点字』として、無数のを刻み込んで文字に成すという作業をしていたんですね。
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4.そう、答えは既に、そこにあった。

自分の中に、あったのです。

【永遠】
それは、それをで掘る事に、その《毎瞬》《没入》している私自身の、
その意識の感覚そのもの。
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私の魂は、こうして私の自我に沢山のヒントを与え続けてきてくれました。

◆【この瞬間】に、【今】に《没入》する事。
◆その感覚を感じ尽くして、その中に入り込んで思い切り楽しむ事。


それなのに、私の自我は長いこと「自己探求を」続け、『悟り』たいと願い続けるのです。

5.Who am I?


それを知りたくて。

もう、既に、知っているのに。
もう、既に、 I AM の意識を持っているのに。


そしてヒプノの世界に入り、毎日瞑想を続けました。
様々な種類の瞑想をしました。
そして意識は、どんどん拡大していきました。

同時に、どこか何か、頭打ちな感覚を覚え始めてもいきました。
「こんなに瞑想しているのに、いつになったら悟れるんだろう?」

そう感じ始めた頃、目の前の現実で
なんと想像もしていなかったようなチャレンジが訪れはじめたのです。

それはとても個人的な事であると同時に
他の人も関係してくる事な為
ここでその内容について詳しくは触れる事はしませんが、

私はそこから
最大の恐怖やパニックや
全てがガラガラと崩れ去るような破壊的な気持ち、
前に進む事さえできなく思えるような途方もない空虚を感じ始めました。

苦しかった。
どうしてよいか、分からなかった。

それでもただそれらと共にいて、それらを感じ尽くし、
そして丁寧にひとつづつ、目の前の全ての事に向き合いはじめました。

自分に正直に、全てに正直に、
勇気をもって、恐れではなく愛からくる選択のみを選ぶと決めながら。

展開する現実は
何度も私に大きな壁をぶつけてきたり、
何度もショックのどん底に落とし込むようなスパイスをきかせて
どんどんと繰り広げられていきました。

それでも私はその度に勇気をもって、愛からの選択をすると心に決め、
更にはそれらを、
「どうやって楽しめるだろうか」という方向に発想の転換をしていったのです。

その発想について、私の中には二つの私がいました。


◆こんなに苦しいのに、『楽しむ』なんて??と感じる私
◆これこそがチャンスよ!『楽しむ』チャンス!と感じる私。

ずっと自己探求を続けてきた私、《悟りたかった私》は、
どちらを選んだでしょうか?

はい、勿論後者です。

◎全ての事を「楽しむ」「面白がる」視点を持ち始めた。
◎それは、それがどのように苦しく見える状況であっても。

それからです。

すべての現実が『喜劇』のように見え始めたのは。
私自身がその喜劇の中ですべての私を演じている感覚が、
ありありと身体を通して感じられてきました。

それは現実逃避している感覚ではなく、逆にそこに没入しているからこそ、
その自分自身が面白くて愛おしくてたまらない。

そしてそこにまつわる展開や、それに対する自分の反応に全て「気づき」、そんな自分の反応を認識することでそこに持っている執着を手放すことができるという《遊び》が生まれたのです。

その遊びをやっている私は、
『悟りたい』という気持ちさえ忘れていました。
無我夢中で、その遊びをしていたのです。

多くの涙を流し、痛みを感じ、それらの肉体的反応に気づきながら
そこにまつわる《執着》《抵抗》
《頑な思い込み》を見つけ、手放す。
時には、あきらめる。
そう、手放せない時には、現実の展開が『諦める』しかない方向に強いてくることさえもありました。

そして仕方なく諦めさせられた後に浮かんでくる悲しみの一方で、ふと、

「あれ?あんなに頑なにしがみついていたけど、もしかしたらそれこそが私をガチガチに縛っていた固定観念?私の中だけで作ってきた、私だけの常識?」

と感じる気持ちもあり、
そこに気づくと何故かスーッと心が軽くなっていくような、
手放されて楽になっていくような思いさえも生まれていくことに気が付いていました。

《どちらでも、いい。》
《どれでも、大丈夫》

そんな、全てを大きく含んでいるような感覚。

それは、意識がぐーんと広がり拡大したような、
あの時の、《永遠》という文字を掘っている時の深さのような、
大きな大きな意識の感覚。

それは皮肉にも、悟りたいと願う私がずっと求め、瞑想しても瞑想しても
頭打ちと感じてしまって超えられなかった、
壁の向こうにあると感じてきた、
大きく広がった感覚でした。

《全部、それでいい》

その感覚に委ね、現実の展開を楽しみ、
そして何よりも目の前の《今》《この瞬間》
没入するように
楽しみ始めた私は、
ここにある《永遠性》をただただ楽しみ続けるようになりました。

その感覚は、既に私の中にあった感覚。
子供の頃から、知っていた感覚。
あの頃に、肉体を通して実感していた感覚。

それなのに、そうとは知らずにどこか遠くへそれを探しに出かけ、時には迷い、時にはまた見つけたと喜び、そしてまた失ったと嘆いていた私。

滑稽すぎる、可愛すぎる一人劇。


6.瞑想の質


そしてそれから、
悟ることを願っていたのに「心ここに在らず」の状態も多かった一人劇を演じてきた私さえもを愛おしく感じるようになると、
それからの瞑想の質が、全く違うものになっていきました。

その質感というか、密度というか、その潤い度というか。。
悟りたいと切に願いながら繰り返していた瞑想。

同じ瞑想であるのにも関わらず、周波数が違う感じ。
届きゆく領域が、違う感じ。

深いとか高いとか言う言語化する言葉では収まり切れないような、
言葉を超えた世界の、恍惚感を含む領域。

それは、瞑想を『手段』にしなくなったからかもしれない。
そして、悟ることを『目的』にもしなくなったからかもしれない。


8.まるでフェチズムのように


今私は、現実の《毎瞬》に、恋するかのように没入する楽しみの中で生きる体験をしています。
もう一つの表現をすると、目の前の現実は、《今》《この瞬間》に没頭する楽しみから生まれる『現象』として、見えています。

それは、現実をコントロールしているのではなくむしろその逆で、
コントロールを手放して、目の前の現象をそのままの姿で見、
その《毎瞬》という《点》の永遠性を、まるでフェチズムのように愛おしむ感覚。

一人一人の劇が面白おかしくて、愛おしくて、それらを没入しながら楽しむ味のある世界。
この世界は素晴らしく色鮮やかで、優しさに包まれている。

それらを見ている時その背後には、拡大された大きな大きな意識が私という自我を包み込むかのように存在し、そちら側に焦点を合わせるともうそこには、私という存在さえもが消え去っていくような感覚。

それは、全ての『差』を取り払ってしまったような感覚。

差取り。
さとり。
悟り。


9.遊び

そしてそのように、
これからもどれだけの『差』を取り続けていけるのかという
一元の世界の遊びと、

一方でその差を「違い」として尊重し、自分の中の「嫌だな」という違和感を感じた時に自我が大切にしたいと思っているものをどのように扱っていくのかという、
二元の世界の遊びを楽しんでいく日々。
自分の中の大切にしているものに囲まれた、心地よい日々。

もしもそれが執着になった場合には、自ずとそれが手放される何かが現れてくるかもしれない。
より、本質に近づけるために。

10.逆説はいつも、逆説を生む。

その上で更に、「執着しても、いいよね」という『差取り』に至ることもある。
何故なら「執着はダメ」ということさえも、実は「差」になっているかもしれないからね。

どちらにしても、このゲームは深刻になった時点で面白くない。
逆説さえも、笑ってしまう遊び心が大切なの。

さてこんな、逆説的な事も含む多面遊びを手に入れながら、
私が
「私は、悟りたかったんだ・・・」
と、
こんな簡単な事に気がついた時、

そんな自分が愛おしくて可愛くて、ぎゅーっと抱きしめたくなりました。

それは、お風呂場で裸になっているのに『まだ何かを着ている』という不快感を感じている小さな私に、この全てを伝え、ぎゅーっと抱きしめるように。

そして、『永遠』という文字を多くの点でを掘り創る瞬間に没入し、
その後まるでそれを失ってしまったかの様に永遠を探し続けた以前の私を、ギューッと抱きしめるように。
__________

「悟りたかった私へ。」

(悟りを求めているあなたへ)


今、ここに、全てがあるよ。
ここ、この瞬間の中に、没入してごらん。

あの時のように。

あの、『永遠』という文字を掘りながら
『点』の中に、没入したように・・・。





Love,
Romi




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