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浜野佐知「百合子、ダスヴィダーニヤ」

シネマノヴェチェントで、浜野佐知「百合子、ダスヴィダーニヤ」 脚本は山崎邦紀。

レスビアンのロシア文学者・湯浅芳子(菜葉菜)と既婚者でプロレタリア小説家の中條百合子(一十三十一)が出会い、男を捨てて女同士の友情を超えた崇高な愛情に向かって突き進む、二人の行く末に待ち受ける必然の結末に涙する、壮大な大河ロマンスの力作。

浜野監督は膨大な量のピンク映画を撮っていて、そのテーマは女性だって気持ちいいセックス、男のためじゃなくて女性のためのセックスの追求だったと思う。そんなイメージでこの作品を観たら痛い目に遭います(そりゃそうだろw)セックスを超越した純愛がテーマ。

共産党書記長・宮本賢治の妻であり著名なプロレタリア文学者として歴史に名を残す宮本百合子、チェーホフやゴーリキイの著作の翻訳者として有名なロシア文学者の湯浅芳子。二人の昭和初期のまだ女性同士の恋愛など世間的にご法度だった時代の純愛を描いたドラマ。

浜野&山崎コンビによる旦々舎一般映画進出から数えて4作目、「第七官界彷徨・尾崎翠を探して」「百合祭」「こほろぎ嬢」に続く作品は意外や女性同士の純愛を描いた恋愛ドラマでフェミの世界とは一線を画す、聡明で先進的な女性たちが世界を突き動かし、変えていく物語。

私が本作を観て感動したのは、芳子と百合子が感情のもつれや誤解、芳子にとっては過去の女性との恋愛の破綻のトラウマ、百合子にはどうしても断ち切れないジェラシーたっぷりの夫との愛憎、これを乗り越えて二人が結ばれてソビエトに向かうまで、波乱万丈怒涛の恋愛ドラマが物語の主題。

即ち、ソビエトで仲良くお互いを認め合って勉学に励む芳子と百合子の姿も、その後に縁あって素敵な男性と出会い芳子との関係を断ち切る百合子の姿も、ここにドラマは無いと考えたのではないか。芳子と百合子が恋愛感情マックスになるまでの往復書簡こそキモだと。

「ダスヴィダーニヤ」とはロシア語で「再び会うまで、今はさようなら」という意味だが、本編で一度もこの台詞は登場しない。なぜなら芳子と百合子の別れは永遠であり、二度と会うことは無かった。その事の重大さはラストで流れる荘厳な「さようなら、私たちの愛」

尺は102分あるが観始めたらあっという間に観終わってしまう、さながら歴史絵巻のような展開で、元々が沢部ひとみ著「百合子、ダスヴィダーニヤ―湯浅芳子の青春」を原作としつつも二人してソビエト行き以降の全てを省略し字幕のみ、その前日譚を会話劇で膨らませた。

参考文献として芳子と百合子の往復書簡が提示され、それはまるで舞台装置の上に乗っかっているような芳子と百合子を中心とした会話劇の台詞が書簡の中にある研ぎ澄まされた過不足の無い二人の真情の吐露として発出し、とにかく無駄がない。画でなく会話で見せる。

主人公の一人、湯浅芳子を演じる菜葉菜はインディーズ映画の女王と評される人で、私がこれまで観た作品の印象としては心の内面に深い傷を負っていて、ナイーブで不器用で上手くコミュニケーションが取れない女性がまさにハマり役で、芳子のキャラに通じる。

一方、宮本百合子の役を演じる一十三十一(ひとみとい、と読む、変わった名前だw)彼女の本職はシンガーソングライターで、着物着てお化粧して中性的な美しさを感じさせる、百合子のバイ性癖をそのまま体現したような、男も女も虜にするような魔性を持っている。

菜葉菜と一十三十一の二人だけでは演技もキャラも硬くなりがちなところを和らげてくれるのが大杉漣で、彼の演じる孤高のペルシア文学者荒木茂はここまでエキセントリックな人だったのかはホントは疑わしいがwとにかく百合子を「ベイビー」と呼ぶポップさステキ!

他にも野上弥生子役で洞口依子、百合子の母親役で吉行和子など登場するが芳子vs百合子vs荒木の男女三角関係の壮絶さの奥に沈み、むしろチョイ役だが野上家のメイドで里見瑤子、百合子の実家のメイドで斎木享子(=佐々木基子)がお馴染みのメイド服で華を添えたw

ザックリ言えば、野上弥生子の紹介で宮本百合子と知り合った湯浅芳子が、一度は躓いたレスビアンの恋愛に目覚め、既婚者の百合子は男女関係なく人を愛す自由人で、惹かれ合う二人は最終的に結ばれソビエトに向かう、ハッピーエンドがテロップで暗転して終わる。

だから、尺の大半、というよりほぼ全部が、芳子と百合子が互いに惹かれ合い、紆余曲折ありながらも愛の言葉を交わし合い、心の奥底に秘めた心情を吐露し合う、どんどん高ぶって来て、途中で荒木茂の邪魔ある意味うざいけど(笑)肉体を重ね合うまでエスカレート。

物語を振り返ることにあまり意味はないと思ってる。むしろ、芳子と百合子が超一流の文学者らしくキメ台詞で会話する、相手だけでなく私たち観客も痺れさせる、言葉の絶妙なチョイスと言うか、仮に同じこと考えていたとしてもこう伝えると心に響くというお手本。

まず、芳子が百合子からの「私はこの愛がなんという名であろうとも、あなたの愛であなたという心の城をもって生きる」という求愛に応えて「私はあなたによって良くされ、あなたも私によって良くされる」決して肉体的なものでない、もっと崇高な何かを求めた言葉。

次に、百合子がロシア語を専門とする芳子に尋ねる「ロシア語で『私の愛しい人』ってどう言うの?」芳子は「モヤー ・ミーラヤ・ドロガーヤ」百合子は芳子のことを「モヤ」と呼ぶことに決めた。そして自分のことは実家の農場でモーモー鳴く「ベコ」と呼ばせた。

そして、かつて祇園の芸者と過ちを犯した芳子が百合子に「あなたは私の前に閉じられていた扉を開ける鍵を持って現れたのよ」愛の告白をする場面。「私は男が女を愛するように、女を愛する!」レスビアンであるという誇りを百合子に向かって高らかに宣言するのだ。

百合子は百合子で、男女の性愛に捉われているから女は男に躓く。これを超克しようとするのだが、芳子はもっと直截的に「女と女の愛はともに地獄へ堕ちる決心と勇気がなければ成就することはできないのだろうか?」同性愛者は変態と呼ばれた、まだ昭和初期のお話なのだ。

台詞の応酬が主体の作品なので、会話劇として良く出来ている反面、画との連動性によるダイナミズムに欠ける所は否めない。そんな中でも私が激しく感情を揺さぶられたシーンが3箇所あり、これは誰しもがここというものではなく、観る人の人生経験が入ってるはず。

さて(さて、じゃねーよw)基本的に百合映画(=レスビアン映画)であるからして男性観客が門外漢のように感じてしまう物語展開の中に強引に入り込んで来る感のある荒木茂こと大杉漣、彼の枯れた物分かりの良いキャラが百合子への執着で壊れていく様が怖い。

野上弥生子いわく「あなたは弱い者に惹かれる」という百合子が米国留学で恋したペルシア語研究に人生を捧げた清貧の学者・荒木。とても性欲などという言葉が似つかわしくない彼が芳子に惹かれていく百合子に対する強烈な嫉妬を露にする場面の一つ一つが胸を打つ。

女性観客からすれば「なんて身勝手な男なんだろう」と思うであろう荒木は百合子への愛情はそれはそれは深いもので、それはエゴと表裏一体、ギリギリのもの。そもそもエゴのない恋愛感情なんて存在するのか?淡白な百合子を前にいつも葛藤している荒木は真人間。

芳子との同居を前提に、荒木に別居したいと伝える百合子。荒木は百合子の実家に相談したり、あの手この手で百合子との仲の修復を試み、ついには押し倒して唇を奪い、そのまま正常位でガンガンFUCKしてしまうのだが、ここに愛は無い。哀しみだけが増幅される行為。

2番目は、観客の大半が胸がスカッとしたと思うが、嫉妬に狂う荒木が芳子に「お前、百合子をどうやってたぶらかしたんだ」迫り、怒髪天を突く芳子渾身のグーパンチが荒木の頬にヒットしてドスンと倒れる、荒木の因果応報ではない、これは芳子の愛情のほとばしり。

そして3番目、ソビエトに向かう夜汽車に乗る、これから大海原に漕ぎ出す夢と野望に満ちた芳子と百合子。ここに「さようなら、私たちの愛」が流れる中、宮本顕治と結婚したためにやがて破局を迎えた芳子と百合子の関係がテロップで流れ、このドラマは幕を閉じた。

百合子と芳子の緊張感あるプラトニックな恋愛感情の中に、道化者のようにコミカルさえ湛える大杉漣演じる荒木茂が何度も闖入し、バイの百合子は芳子と荒木の間をあっちにフラフラ、こっちにフラフラ定まらないのだが、芳子の方は違う。だって筋金入りの同性愛者。

良家の子女で食うためとはいえロシア文学を研究しながらも「愛国女性」などという雑誌を編纂し、初対面の百合子に「まあ、くだらない雑誌ね」と切り捨てられる芳子は、むしろストレートに感情を表現する百合子の自由奔放さ、小悪魔的な魅力にハマっていく。

芳子には百合子に対する思慕の情をストレートに表現できないハードルがある。まず、百合子は荒木というパートナーがいる既婚者なのだ。しかも芳子はかつて祇園の芸者と同性愛に躓いてる。どうして再びレスビアン恋愛なんてできようか、苦悶の日々が始まる。

でもね、自由人の百合子はそんなハードル軽々と飛び越えてやって来る。縁側でうたた寝していた芳子を可愛い♡そっとキスしようとして思わずシーツで顔を隠してしまった芳子。ホントは私だってキスしたかったのに・・・悶々とした思いは膨らんで研ぎ澄まされる。

百合子は元々、東京青山に荒木との住居がある。米国で食えなかったペルシア文学者の荒木は立身出世のため百合子と一緒になったと陰口叩かれていた。で、今は郡山市開成山の実家に籠って執筆活動する百合子。夫との別居は仲違いというより、愛情って何なの?

百合子は心惹かれた芳子と開成山の実家で暮らそうと、荒木に別居通告する。収まらない荒木はここで聖人君主のような人となりをかなぐり捨て、野獣のように百合子を追いかけ回し真意を探ろうとするが、それこそ百合子にとって最も不要な物、性欲への捉われだった。

荒木は一旦は別居を承諾したが、百合子に芳子という存在がいると聞いて血相変えて開成山に乗り込んで来た。「女が女を愛するなんて変態だ!」叫ぶ荒木に芳子の渾身のグーパンチが飛んだ。この事件をきっかけに芳子は百合子を百合としてきちんと愛そうと決心した。

どうしても諦めきれない荒木、引っ越しの荷物を整えて、籠の中に飼った小鳥を「もう要らないや」空に放つと、何事も無いように木に止まって羽根を休める愛らしい姿に「小鳥だってすぐにちゃんと帰って来るじゃないか」荒木は百合子が愛しくて堪らなくなった。

荒木は百合子を押し倒して強引に犯した。でもその一件により百合子の荒木に対する感情はますます醒めたのであった。芳子はかつて愛した祇園の芸者が旦那と上手くやってると聞いて安心した。彼女だってバイだったんだ。百合子もバイ。でも私は真性レズで何が悪い!

そしてクライマックス。同棲し始めてやっと二人きり平穏な日々が訪れた百合子と芳子は熱いキスを交わし、お互いの服を脱がし合う。上半身ハダカになって絡み合う二人が咲かせる百合の花はどこまでもエロと程遠い、精神的な結びつきを強調する崇高なものであった。

1924年に百合子が荒木と離婚し二人は同棲、1927年、百合子と芳子は夢いっぱいソビエトに向かう汽車の中。百合子にはプロレタリア文学、芳子にはロシア文学。しかし留学後の1932年、百合子は宮本顕治と再婚し7年間にわたる百合子と芳子の蜜月の日々は終わった。

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