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「撮影」の意味
写真における「撮影」というと、カメラ(あるいはカメラ機能のついたもの)のシャッターボタンを押す行為、あるいはそれまでのセッティングの過程までを含んだものを思い浮かべるひとが多いと思います。
一般的な意味としてはそれで間違いはないでしょう。
さて、僕における「撮影」の話をします。
最終的には個人的な話にとどまらないので、興味を失わずに最後までついてきてください。
僕はフィルムカメラを使用して作品を撮ります。なので、「撮影」の意味は一般におけるそれより少し狭くなります。
具体的には「フィルムに光を当て、像を刻む行為」を「撮影」と呼んでいます。
「光を当て、像を刻む行為」という部分が大切で、デジタルカメラは「当たった光を信号として記録する」もので、物理的にどこかに「像を刻む」ものではありません。
ここまでは一般的な認識より少し狭めた意味での使用なので、理解の範疇でしょう。
ここからが大事になります。意味を狭める段階から、意味を拡張する段階に入ります。注意して読んでください。
僕にとって「撮影」は二段階あります。
一段階めは上述の通り、「フィルムに光を当て、像を刻む行為」です。
二段階めは「印画紙(写真用紙)に光を当て、像を刻む行為」、すなわち、暗室でのプリントです。
(印画紙というのは光を当て、現像液に浸すと、光を浴びた部分が変色する、昔ながらの写真用の紙のことです。)
僕にとって「撮影」の物理的な本質は「光を当て、像を刻む」ことなのです。
フィルムを用いたプリントには二種類あります。
デジタルデータ化の過程を経るものと、経ないものです。
前者も厳密には第二の「撮影」に等しい行為が行われている(インクを用いたプリントは含まない)のですが、多くのひとはこのことに無自覚です。
デジタルデータからプリンターを介してプリントする場合、第二の「撮影」とも呼べるプリントを機械に委託してしまっています。
僕の価値観では、意思疎通できる熟練のプリンター(プリント職人)ならまだしも、機械に第二の「撮影」をお任せ(外部委託)するというのでは作品として認められず、自身の手で行っています。
「アート」の語源は「ars」で「技能」や「才能」という意味があると言われています。ならば「技能」や「才能」に関わる部分を作家はなるべく外部委託するべきではない、と考えるからです。
ただし、これは他の写真作家の手法を否定するものではありません。僕の、作品に対する価値観のあらわれであり、別の在り方をした価値観のあらわれがあることは、よく理解しています。
重要なのは「作品が作家の価値観のあらわれであること」と「作品が芸術として機能すること」です。
この二点については直接・間接またの機会に触れようと考えています。
さて、本題の確認をします。
僕にとって「撮影」は二段階あります。
第一の「撮影」と第二の「撮影」です。
このふたつは「光を当て、像を刻む行為」という点で共通しているということを説明しました。
「撮影」という言葉ひとつとってもその裏には作家の価値観(あるいは価値観の無さ)があらわれます。
作品(または作家の言葉)という「表現」がどういう価値観(文脈)に支えられているのか、あるいは張りぼてなのかを考えてみると、平板に見えたものが立体的に立ち現れたり、ありがたそうなものが平板に帰したりします。
長くなりましたが、以上が僕にとっての「撮影」の意味です。
これをきつかけに、日常に溢れる平板な言葉を再考してみるのもいいでしょう。
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