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音楽から世界をイメージする力

 最近、クラシック(特にピアノ)の曲を大音量で聴くことに少しハマっています。鍵盤を叩いた後に残る音の響きに浸るのが気持ちいいのです。

 さて、新体操にとって音楽は絶対に必要なもので、基本は音楽に合わせて演技の構成が作られ、音楽のイメージに合わせた表現がなされます。今回は、新体操には必ず必要な音楽との関係についてお話ししようと思います。

昔は生演奏だった

 新体操は比較的新しいスポーツで、バレエや体操から派生したと言われています。音楽が伴うというのは、おそらくバレエの影響が濃いでしょう。今でもそうですが、バレエでは音楽によって演技の構成が決まっているものもあり、バレエのために作られた「バレエ音楽」も数多くあります。バレエはスポーツではなく芸術なので、舞台で踊られることが前提としてあり、音楽という要素が非常に重要な位置を占めていると考えられます。(バレエ未経験者の一考えですが…。)

 新体操でもその要素を引き継ぎ、音楽(専門用語では「伴奏音楽」と言いますが)がないと成り立たない競技となっています。(フィギュアスケートやアーティスティックスイミング(シンクロナイズドスイミング)もそうですね。)なんとこの新体操で使われる伴奏音楽、初期は生演奏だったのはご存知でしょうか。ピアノをはじめとした演奏者が演奏する横で、選手は踊っていたのです。試合が行われるフロアの横で演奏するので、オーケストラのような大勢で演奏するものは不可能ですが…生演奏だなんて、なんだか素敵ですよね。

 しかも当時は、今より「音との調和」「表現」という要素がはるかに重要で、横で演奏される生演奏の音と選手の動きが見事にマッチしています。選手が音に合わせていたのか、はたまた伴奏者が選手の動きに合わせていたのか、私は当時の選手ではないので定かではないですが…音と動きの一致は見てて本当に気持ちがいいです。

 伴奏が生ではなくなることによって(つまりスピーカーから音を流す技術が採用されて)、選手が踊ることのできる音楽の幅はとても広がりました。表現の幅が広がる一方、スポーツと芸術の狭間で揺れる新体操は、スポーツ寄りの道を辿ることとなり、生演奏で演技をしていた頃に比べると音楽が軽視されているなという印象を受けます。それが良いか悪いかというのは置いておいて、やはり新体操にとって音楽というのは昔から非常に重要視されてきたもので、これからも選手は音楽を大切にするという姿勢は変わらないでしょう。

最近、歌詞のついた音楽が解放されて

 最近(といっても7、8年前くらいでしょうか?)歌詞の伴う音楽の使用が限定的におっけいになりました。(当時は個人・団体それぞれ一種目のみ)それまでは歌詞の入る音楽はNGで、選手はクラシック音楽やサントラ、歌詞の部分をメロディーだけにした音楽等を使用していました。(コーラスやスキャットなどはおっけいでした。)歌詞を伴う音楽が許可されると途端に選手は歌詞を伴う音楽を使うようになります。

 私たちが普段聴く音楽は、歌詞ありのものがほとんどではないでしょうか?歌詞ありの音楽は許可されるのは、これまた音楽の幅が格段に広がります。選手が自分の踊りたい音楽を選択するハードルも大分下がりました。見ている人にとっても、知っている音楽が流れることが増え、長い競技時間で退屈することも減ったのではないでしょうか。

 この歌詞つき音楽の許可に伴って、最も影響するのはやはり「表現」でしょう。選手は自分の使用する音楽がどのようなものなのかを、歌詞からイメージすることが可能になります。最近の曲でしたらPVが出てたりもするので、それを見ることは、十分自分の演技の参考になりうるでしょう。また、見ている人もその曲の歌詞を知ることにより、その選手の表現を受け取りやすくなることも考えられます。表現しやすく・わかりやすくなったのです。

なぜ歌詞あり音楽は使われなかった?

 歌詞ありの音楽は、選手にとっても見ている人にとっても利点ばかりあるように見えますが、なぜこれまでの新体操の歴史の中で、歌詞ありの音楽は許可されなかったのでしょう。私の力ではそれがはっきりする情報を得られませんでしたが、少し自分なりに考えてみたいと思います。

 新体操の起源とも考えられるバレエ音楽でも、これまでの新体操と同じように歌詞を伴うことはありません。これについてもなぜ歌詞がないのかはわからなかったのですが、おそらくバレリーナが映える演出のためではないかと予想されます。

 バレエは先述したとおり芸術です。音楽を楽しむという要素もあるかもしれませんが、舞台の上で舞うバレリーナを観るのがメインです。3大バレエ作品(『白鳥の湖』『眠れる森の美女』『くるみ割り人形』)はどれもチャイコフスキーの作品ですが、このバレエ作品が成立したのは19世紀後半。それまでバレエ音楽は音楽家にとっては重要視されておらず、「芸術家」というよりは「職人」の仕事と捉えられていたそうです。こういった背景からも、バレエでは音楽よりもバレリーナの舞を味わうという側面が強いのがわかります。

 一方、私たちがよく聴く音楽はほとんどが歌詞を伴うものですが、そういった音楽を聴くときに歌詞というのは非常に重要な位置にあります。曲の中で歌詞がメロディーラインになっており、歌詞に共感し、歌詞を口ずさみます。歌手の歌唱力というのも曲を聴く上では重要です。歌詞を伴う古典的な音楽といえばオペラですが、オペラでも同じことが言えるでしょう。歌詞を伴う音楽は、聴くとどうしても歌詞に引っ張られてしまう傾向があります。

 こうした状況を加味すると、バレエというダンサーを見る舞台では、歌詞は表現の助けになるどころか邪魔になってしまうと考えることができるのではないでしょうか。バレエの血を濃くひく新体操でも、この考えが採用されていたと思われます。

 近年歌詞ありの音楽が採用された背景には、新体操は芸術ではなくスポーツであるという点が大きく影響しているでしょう。舞台で踊る訳ではなく、また表現だけでなく技を重視する傾向が強くなっている今、より見やすい「スポーツらしい」スポーツになるために、多くの人に受け入れられやすい“歌詞を伴う音楽“を採用したのではないかなというのは想像に難くないです。

音楽からイメージを膨らませるということ

 さて、歌詞のある音楽が許可され、選手も見ている人もわかりやすい新体操に近づいているなと感じますが、歌詞の有無に関係なく、「音楽からイメージを膨らませる」ことは今も昔も変わらず新体操選手にとっては重要なことです。腕を上に上げる動作一つにしても、曲のイメージによってガラッと変わってきます。この「イメージを膨らませる」という作業、私は現役時代全然できていなかったなと思いますが…新体操選手の皆さんはどれくらいできているのでしょうか。

 以前から、表現するにはその表現したい対象を深く理解しないと難しいということを幾度となく記事内で書いていますが、深く理解するには「音楽からイメージを膨らます」という作業は一つ効果的で、これには訓練が必要です。歌詞を伴う音楽は、歌詞を見ればその曲の物語が一目瞭然ですが、この訓練ができる機会が奪われてしまっていると捉えることもできます。また、見ている人にとっても、曲や演技からイメージできる枠が、歌詞によって狭まっているのではないでしょうか。表現が歌詞の範疇で収まってしまっているということです。曲からイメージされる世界は、歌詞以上に大きな広がりがあると思っています。

 新体操はスポーツであり、ルールによって多くの制約がなされています。それでも「芸術的だ」と言われるのは、美しいだけでなく「表現」にある程度の自由があるからだと私は考えています。曲の捉えに制限や正解はなく、選手各々の捉えが可能であるのです。伴奏音楽に歌詞がつくことは、使用できる音楽の幅が格段に広がり一見表現の幅が広くなっているように思えますが、曲の捉えの幅が歌詞によって制限されたり、選手が表現のために行う「音楽から世界をイメージする」という行為が奪われてしまうというマイナスな面も存在しているのです。

まとめ

 新体操にとって、伴奏音楽はその演技の世界観を決定づける非常に重要なものです。また、新体操が芸術的だと言われる一つの要因として、ルールという制約だけでなく、音楽から広がる世界に自由があるという点が挙げられます。音楽はその演技の表現の可能性をもたらす一方で、歌詞ありの音楽の解禁に伴い、歌詞による制約を受けてしまう可能性も出てきました。これからどのような音楽を選手・指導者が選択するか判断が難しくなってきたなと思いますが、どのような音楽を選ぶにしろ、「音楽から世界をイメージ」し、そこから自分が「自由に表現」することは、楽しみつつ大事にしてほしいなと思います。その訓練の中で培われた感性は、選手としても・選手を引退した一人間としても生かせるものだと思っています。

 かつて生演奏で競技が行われていたときの、「音を大切にする感じ」が忘れられませんように。


最後まで読んでいただきありがとうございました!

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