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新体操が「美のスポーツ」と言われる所以とは?

実は、この2年、社会人として新体操の練習に励んでいました。昨年から試合にも出場するようになり、今年も挑戦しています!

今回は、久しぶりに実践者の立場になって改めて感じたことを書いてみようと思います。

久しぶりに動いて感じること

できない私は人前で演技をしてはいけないと思った

 競技を高校3年生で引退し、しばらく体を動かすことがなかった私。
久しぶりに動いて、一番に感じたことは体の衰えでした。笑
足は上がらないし、腰は曲がらない。早く回ることもできず、ジャンプを跳ぶのも一苦労。1日休むと身体は3日分衰える…なんて聞いたことがありますが、そりゃ数年休んでいればできないことがあるのは当たり前です。それなのに、現役時代にした怪我だけは健在で、その痛さが自分のパフォーマンスをより邪魔してしまいます。

 初めて「社会人としてやってみない?」と言われたときは、実はあまり乗り気ではありませんでした。

 なぜなら、「今の自分は人に見てもらうには値しない」と思ったからです。

 新体操は採点競技。また芸術スポーツとも言われるように、見てもらって価値をもつスポーツです。自分はやりたい気持ちがあるけれど、見ている人は「つまらない」「よくこれで人前で演技しているな」と思うのではないか。見たくないと思われるのは、新体操をしている自分にとって一番辛いことだと感じたからです。

見てもらうのは見た目の美しさだけではない

 しかし、そうした私のマイナスな感情はいつしか消えていました。
 今、私は自分がやりたいことをに取り組むことができていて、とても嬉しいです。

 演技を作って、自分でビデオを撮って見てみます。やっぱり自分の思っているう数倍身体が動いていない。

 なのになぜか、ちょっと嬉しい気持ちになっている。

 自分の演技の出来よりも、もうできないと思っていた新体操に取り組めているということ、そして一緒に新体操を楽しむ仲間がいて、みんなが自分の思う新体操に取り組んでいること。演技の出来より、今自分が立っている環境が嬉しくて、「もっとやりたい」と思うようになりました。


 新体操は「美のスポーツ」と言われます。この「美」とは、新体操のどの部分を指してそう言われているのでしょうか。

 小さいころから新体操をしてきて、「美」についての学問「美学」を勉強して、新体操を離れて別の世界を見て、今の私が感じるのは、「見た目の美しさではない」ということです。

 自分が競技をやっていた頃、見た目の美しさが大事なんだと思っていました。だから痩せろと言われるし、衣装もきらびやかなものを纏う。手先足先を伸ばし、身体の遠くで手具を操作することは、見ている人が、その方が美しいと感じるからなのだと。

 しかし、今の私がそれが新体操の美の本質だとは思いません。

実践者として改めて感じた新体操の魅力

 「美学入門」という書籍で、中井正一さんはこのようなことを言っています。

例えば、水泳の時、クロールの練習をするために、写真でフォームの型を何百枚見てもわかりっこないのである。長い練習のうちに、ある日、何か、水に身をまかしたような、楽に浮いているようなこころもちで、力を抜いたこころもちで、泳いでいることに気づくのである。その調子で泳いでいきながら、だんだん楽な快い、すらっとしたこころもちが湧いてきた時、フォームがわかったのである。初めて、グッタリと水に身をまかせたようなこころもち、何ともいえない楽な、楽しいこころもちになった時、それが、美しいこころもち、美感にほかならない。自分の肉体が、一つのあるべき法則、一つの形式、フォーム、型を探りあてたのである。自分のあるべきほんとうの姿にめぐりあったのである。

「美学入門」中井正一

 何度も練習することにより、自分の中で自然の法則に則ったような楽な気持ちが生まれる。それが「美しいこころもち」ということです。

 この「美しいこころもち」は誰もが手に入れることができるものではなく、何度も練習を重ね、試行錯誤して初めて手に入れることができる感覚です。見ている人がわかるものではなく、その動きを実践している人にしかわからないものです。見ている人にはあまり変化がなかったとしても、実践者にとっては世界が覆るような大きな体験です。

 そしてもう一つ注目したいのが、「自分のあるべきほんとうの姿にめぐりあったのである。」という一文です。

 「美しいこころもち」に出会うことは、「こういう自分もいるんだ」という、知らなかった自分との新たな出会いとも言えます。

 この「新たな自分との出会い」(言い換えると「新しく自分を構成する」とも言えます)は、芸術活動においても言われることです。

 芸術家は、作品作りを通して社会に何かを訴えかけていきます。そうした活動の中で自分の考えがどんどん強固なものになっていくそうです。作品を見る人も、鑑賞を通して様々な考えを知り、自分の直感にあったものを受け入れ、自分自身の思いが発見されると言います。

 私自身も、こうして文章を書くことで自分の考えや思いがクリアになり、自分が何を大事にしたいのかがわかるようになりました。

 これは新体操に取り組むことにもつながると思います。

 新体操では、レベルに関係なく一つの演技をするためには、それなりの練習と自分といろんな視点で対話をすることが必要だと思っています。(これは難しいことではなく、小さい子も熟練者も自然とやっていると思っています。)

 まず、動きの練習が必要です。新体操の動きをするには、バレエや柔軟などの基礎練習も欠かせないでしょう。
 そして、手具の練習に取り組むことも大事です。
 さらに、音楽を聴いて、音楽に合わせて動いたり音楽の世界を感じたりすることも求められます。
 団体であれば、一緒に演技をする他のメンバーを感じることも行います。

 こうしたいくつかの新体操に必要な要素は、自分をいろんな視点で見ていることになります。新体操の動きは日常生活では味わえないものです。新体操に取り組むこと自体が、新たな自分と出会うための機会になると思います。

(余談:こうして細かく分けなくても、人は何かに取り組むだけでそこで新たな自分に出会うことができると思っています。スポーツ、音楽、友達との会話など。そこでどう関わるかが重要)

 先にも述べたように、私は今の自分が演技をすることに対し、後ろめたさを感じていました。しかし、練習を重ねるごとに、いろんな新しい自分と出会うことができました。そして、たくさんの新たな自分に出会うことによって、自分のキャラが見えてきたような気がします。使いたいと思う曲だけをとっても、自分のカラーが出ていると感じます。改めて取り組んだ新体操を通して、美しいこころもちを感じたり、新たな自分との発見をすることができました。


 新体操は、ただ見た目が美しいことが魅力ではありません。
これまでの練習や自分との対話の成果を、音楽や衣装、その人の動きや表現で表すことができる。そして見ている人は、演技から垣間見える努力の過程や人間性に「美しい」と感じる。

「美のスポーツ」の美は、演技者の内側から溢れる「美しいこころもち」や「自分のあるべき姿を発見した喜び」のことを指していると思います。

社会人大会について

 私の周りには、私のように「新体操を大人でもやりたい!」と思って行動に移してきた人がたくさんいます。新体操をやったことがない人でも、「ずっと憧れていた」と言って取り組んでいる姿を見て、「私も現役時代、こんなふうに純粋に新体操と向き合いたかった」と思っています。

 正直、大人は足が上がるわけでもないし、巧みな手具操作ができるわけでもありません。手先足先は伸びないし、見た目は美しいとは思えないかもしれません。

 しかし、大人になってから新体操をやってみようと思う心は、大きな勇気であり、幾つになっても新たな自分を発見する喜びを忘れていない、美の実践者であると思います。実際、私の周りにいる社会人新体操選手は、新体操を通して新たな発見を何度もしています。自分のやりたかったことを体現できている、「あるべき自分の姿」がたくさんあります。

 新体操は見た目の美しさだけではない。
今まで見た目だけだと思っていた自分に、本質は中身であると伝えます。

新体操を通して、あるべき自分の姿に出会える人がたくさんいればいいなと思います。

私も社会人大会で、たくさんの「自分の理想」を見て勉強したいと思います。
あ、もちろん自分も臆せず頑張ります!


💫2023新体操フェスタ岐阜は、9月28日〜10月1日、
岐阜メモリアルセンターで愛ドームで開催されます。
社会人でも新体操をしたい。この思いは長い間叶わないものとなっていました。
こうして大会を開催してくださることに、心から感謝したいと思います。
自分が新体操に取り組める全ての環境に感謝します。

長くなりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。




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