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スポーツの「詩的」な在り方

 人はなぜスポーツをするのか。

 私はなぜ新体操をしているのか。

 私がnoteをはじめたきっかけとも言える、”スポーツの動機”。

 大学院でスポーツの在り方、新体操の在り方や、自分の在り方について考えてきましたが、修士論文もほぼ完成を目前に控え(満足いかない出来なのですが。)noteでもその集大成を書いていこうと思っています。

 今回はその第一弾、「スポーツの在り方」に関する私の考えです。

嫌いになりかけた新体操

 私は、5歳から高校卒業まで、13年ほど新体操というスポーツをしていました。近くに住む友達から誘われたのをきっかけに、小学生になった頃から、クラブチームを代表して試合に出場させていただくことが増えました。

 はじめはただ笑顔で踊ることが楽しくて、友達に会えるのが楽しくて行っていた練習場。

 そんな練習場の意味合いが、だんだん変わっていきました。

 いつの間にか、試合で結果を残すことしか考えられなくなって、色んなプレッシャーがのしかかり、ストレスで太って、太った身体でフロアに立つ自分が嫌すぎて。太ったことは、私を見る周りの目をも大きく変えました。言葉にしなくてもなんとなく私に伝わっていた、先生たちの私に対する期待感が一気に薄れました。むしろ、「あなたには期待していない」「別にあなたはいなくてもいい」時には「邪魔」と言われたこともあります。

 純粋に新体操を、踊ることを、見てもらうことを楽しめなくなり、試合でも結果は停滞。高校生になってどん底からは這い上がったものの、すでに私の中の「新体操観」は180度変容。試合で結果を残すために、ミスをしないために、自分を押し殺して無表情で練習をする毎日。もうそこに「楽しさ」はなく、「我慢」「忍耐」の毎日でした。

 高校を卒業し、引退してからも、自分の過去の新体操経験を前向きに捉えることはできませんでした。

引退してから気づいた新体操の存在

 引退してから、色んな場面で聞かれます。「何のスポーツ(部活)をしていたの?」。私はこの質問に対し、嘘をつく理由もないので「新体操」と答えます。すると、ほぼ100%、この回答に喰いついてくれます。

「新体操ってどんなスポーツだっけ?」「あれやってたの?すごい!身体柔らかいの?」

 どんな回答も、新体操というスポーツを肯定的に捉えてくれたものでした。特に私より年代が上の大人、教育実習先の先生や、大学の教授は、新体操という経験があるだけで、私に期待をしてくれました。

 実際に私がその期待に応えられたかはわかりませんが、自分が目を向けたくなかった新体操の経験を、無条件に善しと捉えてくださった方々から、過去に目を向ける勇気をもらいました。

 私が得た新体操の経験は、正直胸を張れるようなものではない。でも、今の私を作ってきたのは”新体操”であり、”新体操”がなければ今の私はいない。これは確かな事実です。

 多くの人は、苦しかった過去を「あれもいい思い出」と美化します。私はどうしても美化して済ませることができなくて、大学での出会いでもらった勇気と自分のエネルギーを使って、苦しかった過去と向き合う決意をしました。自分を構成する新体操というスポーツは、どういうものだったのか。どう向き合えばよかったのか。新体操をしなければ得られなかったものってなんだったのか。

”詩的”なスポーツの提案

 初心にかえりましょう。私がまだ新体操を純粋に楽しんでいた頃、私は世界と一体でした。「世界と一体」って、なんやねんと思われた方、その通り、私も伝わる言葉で表現することはできません。でも、「あのバランスはあと2秒止まらなければならない」「手をあと30度上げたら」「あと50センチ先にボールを投げれば」といった、技の正確性に着目した視点は持っておらず、単純に「踊ることが楽しい」「リボンを投げる感覚が好き」「ターンして目が回るのが面白い」そんな視点であったと思います。

 私はこうした、技能の習得や点数のためといった視点から離れて、特に勝負にこだわらず、純粋に「動くこと」を楽しむスポーツの在り方を「詩的なスポーツ」と名付けたいと思います。詩的と名付けたのは、「スポーツや運動を通して得られた”ポエム”的な表現ができる体験を重視したい」と思ったからです。

 二つの詩を紹介したいと思います。

【鉄棒】
僕は地平線に飛びつく
僅に指さきが引っかかった
僕は世界にぶら下がった
筋肉だけが僕の頼みだ
僕は赤くなる 僕は収縮する
足が上がっていく
おお 僕は何処へ行く
大きく世界が一回転して
僕が上になる
高くからの俯瞰
ああ 両肩に柔軟な雲
(村野四郎)
【てつぼう】
くるりんと
あしかけあがりを した
一しゅんにだ
うちゅうが
ぼくにほおずりしたのは
まっさおの
その ほっぺたで…

おお
こここそ うちゅう!
ぼくらこそ うちゅうじん!
ヤッホー…
(まどみちお)

(『スポーツ詩集』 1997 川崎洋・高階杞一・藤富保男 編、花神社)

 上の二つの詩は、どちらも鉄棒で回転技をするときの様子を描いた詩です。こういった感情、感覚は、「どうすれば回れるか」「もっと足を蹴って」…といった、技能習得のための思考では叶わないものではないでしょうか。純粋にその動作を感じる、体験するような状況でないとなされないものです。

 私が新体操をはじめた頃、楽しかった新体操というのは、きっとこういった関わりをしていたからだと思います。技がどう・点数がどう・ミスがどう、ではなく、回ったり・跳んだり・フープを投げたり・リボンを操作したり…するだけでいいのです。

 そして「世界と一体になる」ということは、村野四郎さんが両肩に雲をのせたり、まどみちおさんがうちゅうとほおずりしたり、ということと同じだろうと思います。つまり、ジャンプするときに空気に乗っかったり、リボンを回すときに空気を操る魔法使いになったり…。こういう、技能習得から離れた視点でスポーツと関わることによって、詩的にスポーツを捉えられるようになり、純粋にスポーツするという行為を楽しめるんだと思います。

まとめ

 スポーツを詩的に捉える視点は、勝負とか、点数とか、記録を意識するとすぐに消えてしまう。でも、勝負が付き物である競技スポーツでも、こうした視点は叶えられるし重要なものです。忘れてはならない視点だと思います。勝負のための練習が苦しくて、逃げ出したくなったときに思い出される「自分はこのスポーツが好き」という感情は、この詩的な目から見たスポーツではないでしょうか。

 そして、最終的にその競技を引退した人間に残るのは、詩的なスポーツの経験(体験)だと思います。あの感覚、あの体験。自分の身体が、動作が、世界と一体になるような、言葉にできないもの。そんなところに、スポーツの純粋な姿があるのではないかと思います。

 自身のスポーツ経験の中に、詩的な体験が眠っていないか、振り返ってみてはいかがでしょうか。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

※スポーツを詩にした人物として、「村野四郎」が挙げられます。特に体操、陸上、水泳、スキーといった、いわゆる「クローズドスキル」と呼ばれる、身体の内部感覚が重視されるスポーツの詩が多いです。

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※「世界と一体になる」体験について、矢野智司が「溶解体験」と呼んでいます。溶解体験については、生成(心身の発達のため「発達の論理」や、何かの役に立つ「有用性の原理」から離れた視点)として物事を見たときに為されるものであるとしています。また、「経験」と「体験」について、以下のように違いを提示しています。
「経験」…将来、何かのためになるといった、有用性の視点からみたもの
「体験」…「ああ」「おお」としか言えない、生成の視点からみたもの



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