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【芸術!と言ったもん勝ち?】芸術とは何かを考えさせる、ふたつの問題作─赤瀬川原平《模型千円札》とマルセル・デュシャン《泉》2023年度 第1回コレクション展 京都国立近代美術館


5月末の京都、東山にある京都国立近代美術館。
「Re: スタートライン 1963-1970/2023」展を見終わって、さてコレクション展とそそくさと階段を降りる。

今回はコレクション展に赤瀬川氏の作品が出ている、というのを予め聞いていたので、京都行きの目的はこの展示だったのだ。
(寄り道した大阪で20年ぶりに大本命作品に再会してしまう、という嬉しい事件も起きたが)

模型千円札なら都内の各所で見れる場所もあるのだが、今回、デュシャンの泉と共に展示される、というのがポイント。

わぁ…便器を写真に撮ってしまった
影が
ポツン


ともに「芸術とはなにか、現代美術とは何か」を考える切っ掛けになる作品である。(そしてその裏側には生誕120周年を迎える瀧口修造の影も見え隠れする企画。関東近郊各美術館では瀧口修造や実験工房のハイライトがこの春多く展示されてきた。デュシャン研究と千円札裁判に瀧口修造の名は欠かせない)

そもそも、なぜ千円札を模造したか、の話は赤瀬川さん著書の「全面自供」を読んでいただきたい。

私の一番最初のお金の記憶はこの聖徳太子のお札。
最初期の千円札作品。かきとめ。


模写、模造、模型、複製、偽造、という複雑な法律の仕組みに絡んでいく千円札騒動。

弁護人の最前線にいたのは瀧口修造で芸術か否か(芸術である、だから無罪)の主張で切り抜けようとする中、石子順造氏が「そもそも存在しない0円札などは貨幣としての価値の認識がない」とし、さらに人の貨幣への認識、国家権力にまで話を及ばせ、「そもそも既存の価値が存在しないのなら貨幣の価値を脅かすものではない。芸術でもない、しかし犯罪でもない。だから無罪」という、もっともでありながら複雑な主張をしたり。
(参考;府中市美術館 石子順造展の図録より)

東京大学博物館で2001年行われた「真贋のはざま」


という展示でもこの千円札について中原佑介が1967年に論じた文章が掲載されている。面白いのでご興味あればご一読を。

『美術手帳』第287号 1967年 9 美術出版社より

赤瀬川さんが千円札につけたタイトルの中には「殺す前に相手をよく見る」というものもあるくらいだ。(拡大模写版千円札の作品名)
そもそも、お金に困っていた時期、時間がたっぷり合った時期に千円札とにらめっこしてい時にふと思い立ったような話を読んだ。
赤瀬川さんは貧乏著書も結構書いていて、昔からお金に対して並々ならぬ執着、苦労を持っていたことがわかる。
そこから千円札作品に繋がったと考えてもおかしくないと思っている。
ある著書の中では、お金に困って定期券を模写して偽造した話も読んだことがあったのだ。(ついにある日駅員サンに後ろから一言「おい、君」と言われて逃げたのを堺に偽造定期を使うのをやめたという話。今だったら大炎上案件である)

そんな赤瀬川さんの一面、貧乏話から、この千円札は芸術論争の大きな歴史的点、芸術裁判の判例などという壮大な話ではなく、非常に個人的な思いが出発点な気がしてならないのだ。
もちろん、あくまで私個人の見解。
深い研究は専門家に任せる。

この展示室には他にもお金をモチーフの作品が並ぶ。これはお馴染み宮島達男氏。
一万円札だー!



発表の場が美術館、美術にまつわる場だったので芸術論争に発展したのだろうけども、もしそれが、文芸だったら。音楽だったら。映画だったら。
このように、美術館へ収蔵されることもなく、また別の機関が保管していたのかもしれない。


こちらはヨーゼフ・ボイス



しかし、デュシャンの便器も千円札も。
結局、鑑賞者がそれを見つめている状態によってシュールさや滑稽さが顕になる。
見る人をあざ笑うかの様に言われるが、見る人がいないと成立しないのもまた確かだ。
「作品」という「認識」が存在しないと成立しない。

見る人がいてこそ、作品。
鑑賞者がいてこそ芸術。

「これ」を見せたい、見てもらいたい、見てる人の反応を見たい。
人間の根源にある承認欲求と芸術は案外近いところにあるのだろう。

そう思うと身の回りは芸術で溢れているではないか、なんて考えてしまう。

自転車の車輪にコート掛け…展示されれば作品か?

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