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【展覧会3本立てを見る】セレンディピティ、レトロスペクティブ、古寺巡礼 東京都写真美術館


セレンディピティ 


この言葉は好きだ。
ちょうど一年前はメメント・モリというテーマで展示をしていた写真美術館。真逆に打って出た感はある。いわゆる所蔵品の中からテーマに沿った作品を魅せるコレクション展。

中でもグッと来たのは中平卓馬の作品群である。
「きわめてよいふうけい」という言葉を残した氏の視点は発見に満ちている。鳩の写真。

ハト、鳩、はと
首の伸び具合とか


どこにでもいるのだけど、つい惹かれてしまうのはわかる。なんだろう、あの鳥の魅力は。


深瀬昌久 1961-1991 レトロスペクティブ 


ここ最近思う。個人の記録を覗き見る楽しさ。
全く知らない人物がファインダーを覗き、全く知らない人物がレンズを睨む。その間にフィルムがあって、感光して画が焼き付けられる。
なんの文脈もないのだ。


朝の出発を撮っているだけで。
誰にでもある日常。時代は遠い昔でも日常はどこにでもあるのだなと思わせられる。
深瀬氏本人が静かに破滅していくような、そんな不穏な画面で展覧会の終わりに近づく。酔って転落して怪我して以降、カメラを持つことができなかったという話もなんともな結末である。

土門拳 古寺巡礼

『古寺巡礼』の第一集が刊行されたのは1963年、今年で60年ということだ。
撮影時の土門拳氏のコメントが抜粋されて展示されていたが、どれも仏像に対してユーモアあふれるコメントばかりが抜粋されていて、ちょっと吹き出してしまった。私の中の土門拳像の崩壊というか、あぁこういう眼差しも持っていたのだなぁと。
ある大仏に対して「裏で寺の坊主がごま油でも塗っているのかと疑うぐらいのてかり」という一文は笑ってしまった。きっと反射して撮りにくかった悪態だろうか。

弥勒菩薩の写真
幼い頃、お寺の幼稚園に通っていた。
お教室の黒板の上には「ののさま」といって仏像のモノクロ写真が飾ってあって毎朝拝む習慣があった。
おそらくだが、半跏思惟像、通称・弥勒菩薩の写真。
これも予測だが、おそらく土門拳の撮影した写真だったんじゃないか。

中学生になり美術教師のこれはいいぞ!というレコメンド本に土門拳の古寺巡礼の写真集があり、半跏思惟像の写真を見た時、既視感と郷愁の思いが蘇った。
仏像は何百年も変わらず今にその姿を伝えているが、それを映す角度によって印象やイメージがかわる。一番慈悲深さが表現できる角度と写真なのではないか。
(ちなみに私の母は弥勒菩薩、といえずにミクロ菩薩と言い放ち爆笑した思い出があった。そんな彼女はもう何年も新宿の世界堂のことを地球堂と言っている)

この時点で弥勒菩薩、広隆寺の半跏思惟像をものすごく見たくなり、次の週に京都へ見に行ってしまった。恐るべし古寺巡礼の威力。

その話はまた今度。

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