【立場が変わると景色が変わる】ケアリング/マザーフッド:「母」から「他者」のケアを考える現代美術
ケアリング/マザーフッド:「母」から「他者」のケアを考える現代美術
―いつ・どこで・だれに・だれが・なぜ・どのように?― 水戸芸術会館現代美術ギャラリー(5/7会期終了)
まず、この企画を実施した水戸芸の視点と、展覧会に来場していた客層を見て数年前森美術館で行われたアナザーエナジー展の時より少し、何かが変わったのかなと思えたのだ。
展覧会の趣旨は
ケアを通して見えてくるもの、ケアを「ひとり」から「つながり」へとひらく目的。
展示を見る手引
入場時に手引が渡される。
全く見ないで未知との遭遇をするのもよし。
?と思ったときにその3枚を手がかりにしてもよし。
あとからじっくり見るのもよし。
という、鑑賞者のペースに合わせた見方でよいのだ、と提示してくれる。
多かれ少なかれ皆ケアの経験はあって
水戸芸に行ったのは23年5月2日。
GW直前の平日だからか、結構お客さんがいて、性別も半々。現代美術だけども50〜60代ぐらいの男性も。
今まで母性で語られてきたものを「それだけじゃぁねぇだろ」という視点と気付きがある展示や、ケアってどういう事なのか?などなど。
多かれ少なかれ皆多少ケアと言う行為は他者や動物にしてきたわけで。
そこにどんな気付きがあるのか。個人的な体験から社会へ開いていければ。
印象に残っている作品。
本間メイ
Bodies in Overlooked Pain(見過ごされた痛みにある体)
出産にまつわる話など神話が多すぎて耳が痛いこの世の中で。
その日に居た鑑賞者はじっと、素通りすることなく耳を傾けていた。
少なくともその場で見に来ていた、いろんな世代、性別の人はある一つの現実を知るという段階にいる。
知っただけで解決する問題でもないのだが、それでも知る人が増えることが大事だと思う。(どう感じる、考えるかはまた、別の問題)
だから無痛の乳がん検査機早急にもっとたくさん普及させてくれ。
AHA![Archive for Human Activities / 人類の営みのためのアーカイブ]
私は思い出す
これ。たびたび思うのだが、このように表現されている誰かの思い出ってどんどん読めてしまうのはなぜなのか。
タグコレの時も「ある一個人の思い出話」なのだが読むと非常に興味深く面白いと思ってしまう経験をした。
「私は思い出す、」から始まる一文と日数でなんとなく何が起きているのか察しが付くのも、私自身も育児日誌を書いたことがあるからかもしれない。
私も初めての育児の際は日記をつけていたことがあった。
飲んだミルクの量や排便の回数、睡眠時間、気付きなどをなぐり書きで書いた。
記念式典や行事みたいな大きなことだけじゃなくて。
有名になった誰かの生い立ちだけじゃなくて。
本当に自分と違わない一人の女性が震災後10年どう生活を重ねたのか。
奇をてらわなくて良い、感動させなくて良い。
淡々と連ねられた事実をただ読む。
そこから沸き上がる感情こそが大事なのだろう、と文字と向き合い続けた。
石内都
遺品の撮影なのだ。
祖母、母、おばあちゃん、おかあさん、かあさん、
と呼ばれる前の、あなたは誰だったか。
名前のある一人の女性だったのではないか。
おかあさんだってヒール靴履く時もあるし
真っ赤な口紅を塗るときもある。
派手なサングラスをかけることもある。
爪を飾ったっていいじゃないか。
こう書かなければならなかった時代もあったということだ。
自分が立場関係なく好き勝手な格好をしても他者の目を気にせず過ごせる今。(もちろん人によってだから、まだ自由でいられない人もいると思う)
10数年前、母親になった私に、母や父から「そんな格好して」「そんな靴履いて」と言われた時もあったが最近は言われなくなった。私は相変わらず好きな格好を続けている。
言っても無駄だと悟ったのか
目に馴染んでしまったのか
それは違う?と察したのか
ドレス・コード展の図録で読んだのが
「人は着るものでコード(暗号)を発している時がある」
ということだ。意識的にも無意識的にも。
受け取り側のキャパによって発された暗号が読み間違えられることもあるんだろう。
なーーーんてことを写真を見ながら思いを巡らした。
一枚の写真からここまでぐるぐる考えている時間はどれくらいか。
この間、見ている脳みそと考える脳みそどちらを多く使っているかな。
景色が変わるか
今回のこの展示室は様々な客層がいて、皆じっくりと向き合っていた。
考える展示だけども、難解ではなく、表現によって受け止めやすかったと感じた。
今すぐ何かが解決する話では無い。だけども考えたり、共感したり、違う角度から見てみたり、を繰り返すことで景色が変わっていくのではないか、と思わせてくれる内容だった。