見出し画像

「Voicing Care ケアの声」インタビュー(取材・編集・構成:坂本夏海さん)


回想録『わたしは思い出す』の原型となる『わたしは思い出す 10年間の子育てからさぐる震災のかたち』展* は、どのように企画されたのか。

展覧会「ケアリング/マザーフッド:『母』から『他者』のケアを考える現代美術−いつ・どこで・だれに・だれが・どのように?」(2023年2月18日[土]~5月7日[日]、水戸芸術館)にAHA!が参加するのにあわせて、「Voicing Care ケアの声** 」プロジェクトを主宰する坂本夏海さんから2021年に私たちが受けたインタビュー内容をそのまま転載します***。

聞き手はアーティストの坂本夏海さん、話し手は本展企画者の松本篤(AHA!)、空間構成を担当した佐々瞬さんです。

なお、【転載の理由】については、本記事の最後部に記しています。ぜひ最後までご一読ください。

* 2021年2月10日 - 7月11日、せんだい3.11メモリアル交流館にて開催。
** 様々なケアに携わる女性の内なる声をすくい上げて、ソーシャリー・エンゲイジド・アートに繋げる試み(助成=川村文化芸術振興財団ソーシャリー・エンゲイジド・アート支援助成、キュレーション=ジェン・クラーク、坂本夏海)。
***関係者の許諾を得て転載しています。また、記事内の画像は転載時にAHA!が補足しました。

展覧会について

企画展『わたしは思い出す 10年間の子育てからさぐる震災のかたち』(以下、本展)は、仙台市の沿岸部に暮らしていたかおりさん(仮名)が初めての出産を経験した10年前からつけている育児日記の再読をとおして、彼女の経験した震災後の日常を辿り直すというものです。

本展の準備として、まずは震災の前後に生まれた子どもの育児者を対象に、この10年を振り返るワークショップを実施しました。その参加者の一人がかおりさんでした。かおりさんは、初子を出産した2010年6月11日から育児日記を綴り始めます。そしてその9ヵ月後、沿岸部の自宅にてあの地震に遭います。彼女はそのあとも日記を書き続けます。

企画者のAHA!は、10年間を振り返るワークショップをつうじて、かおりさんが毎日、日記をつけていることを知ります。そこでAHA!は、かおりさんに自身が書いた育児日記を再読してもらい、そこで思い出されたさまざまなエピソードや振り返りを展示に持ち込むプランを着想し、かおりさんの協力を得て実現します。

本展は、主に3つの要素から構成されています。1つ目は、10年間の振り返りの語りを文字起こししたハンドアウト(1年間ごとにまとめられた、総文字数およそ20万字のテキスト)と、そのハンドアウトを読むためのスペースです。2つ目は、ハンドアウトの中から、毎月11日(かおりさんにとっては子どもの月誕生日、犠牲者の遺族にとっては月命日)の振り返り内容を「わたしは思い出す」という定型から始まる短文に編集したもの(壁面に配置された130の短文)。3つ目は、かおりさんのエピソードに登場する生活の風景を想像させるために仙台市内の各所で録音した(サウンド)です。以上の3つの要素から会場は構成されていました。なお、日記を再読し、振り返るという作業は会期をつうじて実施され、それにあわせてハンドアウトや壁の短文も3.11という日付をまたぎながら段階的に増え、何度も会場に足を運んでもらえる仕様となっていました。また、メモリアル交流館に保育園・幼稚園が隣接していたため、展示会場にも子どもの声が聞こえてくる状況でした。

写真=佐々瞬
写真=佐々瞬
写真=佐々瞬
写真=佐々瞬

「私(わたくし)的な記録をなぞる」ことと、「仙台の10年目」

坂本夏海 震災から10年の記録と記憶をテーマにした本展を企画された際、日記の中でも特に「子育て日記」を選んだのは、どのような理由からでしょうか。

松本篤 この質問に答えるために、まず、これまでAHA!が行ってきた試みについてお話します。2005年から始動したAHA!は、これまで「私(わたくし)の記録」に注目し、その収集、公開、保存、活用といったアーカイブ活動に取り組んで来ました。「公的な記録」として取り扱われることのなかったものをなぞり直すことで、メインストリームとされてきた「大きな歴史」やステレオタイプ化されてきた「大きな物語」とは異なる風景を立ち上がることに興味があったからです。例えば、戦後日本の暮らしを私的に記録した「8ミリフィルム」、日本で最も有名なアジアゾウ(はな子)と一緒に撮影したスナップ写真、戦時中の前線と銃後をつないだ「慰問文」などです。私たちは「小さな記録の誕生日を祝おう」というコンセプトを掲げ、私的な記録やそれにまつわる私的な記憶を一貫して取り上げて来ました。

本展の企画者として私たちが招聘された時、これまでのAHA!の活動と同様に、あの地震から10年目の節目で開催される展覧会にも「私的な記録と記憶」をちゃんと持ち込む必要があると考えました。というのも、これまでの10年が「震災」というあまりにも大きすぎる主語で語られすぎていて、その結果として「3.11」という日付や「メモリアル(追悼)」というあり方が多くの人にとってアクチュアルなものではなくなってしまっているのではないかと考えたからです。私たちAHA!は、私的な動機や理由に支えられて記録を残した人を探し、その人の記録と記憶をとおして、この10年を振り返るというアプローチの重要性を非常に強く感じました。

上記のアプローチに取り組むにあたり、まずは、これまでメモリアル交流館が扱ってきたテーマから取りこぼされていた視点を、この10年目の節目に掬い上げたいと考えました。これまでの10年をこれからの10年に接続させるためには、これまで光のあたってこなかった「小さな声」にも光をあてることが必須で、それが実現することによってはじめて「継承」の意味が生まれてくると考えたからです。言い換えれば、震災の直接的な被害を受けなかった人たちの被災体験もしっかりと残し、伝えていくことによって、自分も震災の当事者なんだという意識が芽生えるのではないかと考えるに至ったわけです。

もう一つ、個人的な過去に遡るエピソードがあります。私がAHA!を立ち上げたきっかけになったのが、私が中学生の時に経験した神戸淡路大震災(1995)です。いちばん被害の大きかった地区の小学校にボランティアに行ったことがありました。その時、体育館の入り口に立って外を見つめている妊婦さんの姿がありました。その横姿がずっと記憶に残っていました。

あの頃お腹にいた赤ちゃんは10歳になっているかもしれない。あの女性は生まれてきたであろう子どもに震災の経験をどのように伝えているのだろうか。経験していない出来事を子どもはどのように受け継いでいるのだろうか。そんなことを神戸淡路大震災から10年経った2005年にあらためて考える機会があり、記録と記憶の継承をテーマとしたプロジェクト、AHA!を立ち上げることになったのです。

神戸の地震の時に出会ったあの女性にもう一度会って話を聞くことはできないですが、今回の取り組みをつうじて、地震後の10年間をどのように過ごしたのかを仙台で聞くことはできるかもしれない。そのような内発的、私的な動機があったのでした。

上記の2つの発想が重なる部分に、「子育て」というテーマが浮かび上がってきました。そしてその記録として、「エコー写真」や「日記」という記録物が候補にあがり、最終的に「育児日記」という私的な記録の可能性に賭けてみることになりました。

坂本 ある女性が震災を振り返った記録という、パーソナルな日常の記憶を公の場へ見せるという試みのプロセスには、様々な困難があったと想像します。

松本 実際に本展の準備にとりかかれたのが、2021年の10月。本展まで5ヶ月くらいしか残されていませんでした。そんな中、子育ての記録を取り続けている方がいるのか? また、仮にいたとしても、その日記を見せてくれる方が現れるのか? そんな不安とずっと隣り合わせでした。まずは、約10年前に出産され、ずっと記録を残してる人がいたらいいなと思い、津波の被害のあった沿岸部の小学校に対して広報しました。とりわけ10歳になる子ども約600人の保護者に募集をかけました。

連絡をくれた方のうちの一人がかおりさん(仮名)でした。かおりさんがなぜここに来てくれたのかと尋ねると、「日記を書いている人を探しているチラシを娘が学校からもらって来た時に、これは私のことだ、と思ったんです。ずっと振り返ることをしたかったけれど、そんな時間を自分で作ることはこれまでできなかったし、たぶん、これからもできないと思う。だから今回、思い切って応募してみました」と。

かおりさんの記録を残すことへの姿勢を知っていくうちに、「震災のタイムライン」ではなく「かおりさんのタイムライン」で話を聞くことができる手応えがしてきました。地震から10年目の節目で、被災地がいろんなかたちで取り上げられることは容易に想像できました。そんなタイミングだからこそ、「この10年どうでしたか?」というざっくりとした問い方ではなく、残された記録から具体的に1日1日を語り直してもらう。ひどい言い方をすれば、もうすっかり忘れていたことも日記を手掛かりに思いだしてもらう。その姿勢やスタンスをちゃんと展覧会に持ち込むことが必要だと思ったのです。

来場者には「声」に出会ってもらう順番を間違えてはいけないと思いました。まずは、日記を書き続けていた人に出会ってもらうこと。そして、それは女性で、育児について書いていて、沿岸部で津波に遭いながらもこの10年間を生き続けてきた人だったということ。この順番で出会ってもらえるようにすることを徹底しました。来場者に出会って欲しかったのは、「ケア」という概念や「女性の声」といった大雑把なくくりからは見えてこない、とにかく具体的で連続的な記録と記憶でした。

坂本 AHA!が「個人の声」を拾うことへの徹底した姿勢が伝わってきて、とても興味深いと思いました。もし私が同じインタビューを行うとすると、同じ女性という立場から話を聞き出そうとし、「ケア」や「女性の声」ということを強く意識した、女性が共感できるような内容を強調していくような聞き取りになるかもしれないとも思いました。

佐々瞬 今回、坂本さんから依頼のあった「ケア」や「女性」のテーマを主軸に置いたインタビューが来た時に、正直なところ、松本さんはちょっと戸惑うかな?と思いました。結果的に女性の声を扱うということになったというプロセスが重要であり、それ自体は簡単ではなかったことが松本さんのお話からも伝わってきました。

AHA!のこれまでのプロジェクトは、メモリアルのあり方や記録の政治性、そしてあらゆるメディアとそれを取り巻く社会のあり方に対して強い関心を軸にしており、もともとは例えば「女性の権利」に関する活動をしているわけではありません。今回のメモリアル交流館の展示でも、当事者ではない外部の立場を積極的に使いながら、仙台で起きているメモリアルの状況にメスを入れ、既存のあり方からとり溢れているものを拾っていくような試みであったと思います。そして、その道のりの中でかおりさんと出会えたことが必然性をもっていたような気がします。つまり、直接的な「女性」のモチーフを重要視しているわけではないけれど、AHA!のメディアへの関心やそのアプローチには、結果的に女性、ケアの問題が多分に含まれているのだと思います。

坂本 記号化してしまう震災の記録や、記憶の継承が復興の次のステップとして組織的なレベルで取り扱われていることなどの問題を見つめ、小さな声、聞こえづらいものに焦点を当てるというのは、権力に抗うことですよね。私は、その姿勢こそがフェミニズム的であると思いました。

佐々 AHA!の取り組みは、フェミニズムのあり方が通底音としてある、ということが言いたかったんです。このプロジェクトは、ナショナルなメモリアルや継承というものといかに抵抗するかという連続だったと思います。

松本 本展では、「子育て」「女性」「復興」「被災地」「ケア」などのラベルを使って俯瞰的に語ることを意図的に回避していました。なぜなら、そうやった俯瞰的なラベリングこそが従来からなされてきた、一個人の声を聴くことを最も妨げてきたやり方だったからです。事柄を具体的に扱うこと、言い換えれば、さきほども言いましたが、「震災」という主語ではなく、「かおりさん」という主語で、10年間を語り直してもらうこと。そして、その1人の人間の記録とそれにまつわる記憶から見えて来たことを、展示というかたちで可視化すること。このような、きわめてシンプルで愚直な振る舞いこそが、10年目の仙台で、やるべきことだと思いました。

この方法にこだわることによって、見えて来たことがあります。それはすなわち、「根本的な語り得なさ」というものの存在とどのように関わるのか、ということです。私たちはかおりさんに約5ヶ月のあいだに20回以上におよぶインタビューを行いました。そこで感じたのは、「声を聴くことの難しさ」でした。育児というテーマを男性が女性に聞くというジェンダー的な困難があったと思います。また、コロナ禍ということもあり、インタビューのほとんどがパソコンのモニタ越しで行われたという物理的な困難もあったと思います。ただ、それ以上に、かおりさんがどんなに心を開いてくれていても、立ち入ることのできない絶対的な距離というものが立ちはだかっているのだという感覚。そもそも、人はそんなに簡単に何かを語るということはできないし、聴くこともできない。そんなごく当たり前の事実の輪郭に、これほどまでくっきりと触れた経験はありませんでした。

今回かおりさんが語ってくれたことは、暴露的なマル秘エピソードのようなものでもなければ、ドラマティックな展開やオチがあるようなものでもありませんでしたし、悪を断罪するようなジャーナリスティックなものでももちろんありませんでした。しかし、では、かおりさんの20万字におよぶ言葉に、何の意味もなかったのでしょうか。言い換えれば、語られた内容の正しさや大きさだけが、声の価値になるのでしょうか。まったく出会うことのなかった両者が、聞く、語る、という行為をつうじて一時的に、かつ、一定の距離を保ちながら、ともに過ごすという経験をどう考えればいいのでしょうか。もしかしたら、声の内容よりも、ただただ、ささやかな事柄を語り、聞く、その積み重ねのための時間を分かち合う。このようなあり方ことこそが、「ケア」というものを考える上で重要なのではないか、と考えることもできるかもしれません。

佐々 聞き取る行為自体がケアであった、ということもあるのかもしれませんね。

坂本 かおりさんの方から、聞いてくれる人がいることで助けられたとか、ケアの効果があったという声はありましたか?

松本 ケアという言い方はされませんでしたが、「しゃべれてよかった、振り返りができてよかったです。自分の言葉なのに、誰かの人生の一端を読ませてもらっているような感覚になりました」という旨を終えた後に言ってくださいました。

佐々 日記には、夫と妻の間でのやりとりの中で、かおりさんがイライラしている、ストレスが溜まっているのかな、と思うような場面もありましたが、かおりさんが言葉や出来事を慎重に選び、公開している感じもしました。つまり、ここに書かれているもの全てではない感じがしました。この日記では、日本の社会の歪みや封建的な部分、男性社会の問題が明確に言語化されているわけではありませんし、日記という媒体を使う以上、慎重に語らなければならない部分もあります。しかし作り手は表現において、そこへ想像力を働かせることは重要だと思います。

坂本 書かれた日記はフェミニズムの視点で読む人もいれば、男女のレンズを持たずに読む人もいるという、読み手に委ねられた形で書かれているのかもしれません。相手のことを完全に「分かり得ないだろう」という、ある種の配慮と尊敬の形が、松本さんたちの聞き取りの軸にあるのだと感じました。そこには、女性が女性の声を聞くというような共感を軸に作られた関係性とは異なる距離感や緊張感があるのかもしれません。そのような関係性から導き出されたコミュニケーションは、鑑賞者へ多様な解釈が開かれる可能性を持っているのだと思いました。

[インタビュー 2021年9月22日]

【転載の理由について】
「ケアリング/マザーフッド:『母』から『他者』のケアを考える現代美術−
いつ・どこで・だれに・だれが・どのように?」展への参加を、企画者の後藤桜子さん(水戸芸術館現代美術センター学芸員)から打診いただいた当初、私たちは発表の機会を得られたことに喜びを感じつつも、どこかで参加をためらう感情を持っていました。

その理由は、上記インタビューの中で松本が語っているとおり、「『ケア』という概念や『女性の声』といった大雑把なくくりからは見えてこない、とにかく具体的で連続的な記録と記憶」を淡々と示すこと、〈震災〉ではなく〈わたし〉を主語にすることが、『わたしは思い出す』の主要なエッセンスだと考えていたからです。「ケア」と冠された展覧会に参加することは、このスタンスと矛盾するのではないかと考えたのです。

しかし、私たちは検討を重ね、それでもなお展覧会に参加し、その意義を積極的に探るという選択をしました。参加を決定したあとは、後藤さんとの幾度とないディスカッションをつうじて展示プランの具体的な方向性を徐々に決めていきました。

『わたしは思い出す』にとって、「ケア」という概念であえて語ることのポジティブな意味とはどこにあるのでしょうか? 4月22日に実施されるアーティスト・トークでは、『わたしは思い出す』という書籍や展示の制作プロセスに触れつつ、今も模索中のその問いの答えを、これまでの思索の一端としてお話したいと思っています。ぜひご来場ください。

展覧会「ケアリング/マザーフッド」関連企画
1)アーティストトーク:松本篤(AHA!)
4月22日(土)14:00~15:30
各回40名(要申込、先着順、託児付)
最新情報は、水戸芸術館公式サイトをご覧ください

2)『わたしは思い出す』読書会:進行|AHA!
3月11日(土)、12日(日)、4月23日(日)各日14:00~15:30
各回10名(要申込、先着順)
最新情報は、水戸芸術館公式サイトをご覧ください

「ケアリング/マザーフッド」展では、本インタビューの聞き手を務められた坂本夏海さんをはじめ、滝朝子さん、長倉友紀子さん、本展出品作家の本間メイさんが立ち上げた「子育てアーティストの声をきく」というプロジェクトのウェブサイトが閲覧できるスペースが設置されています。あわせてご覧ください。


『わたしは思い出す』刊行

詳細はウェブサイトへ。
https://aha.ne.jp/iremember/

この記事が参加している募集

育児日記