言葉の学習と詩の力
ミーガン・フォローズが主演の『赤毛のアン』は大ヒットし、全編通してみたこともあるが、非常に印象に残っているシーンがある。
赤毛のアンと詩の朗読
それはコンサートと言って詩を朗読する場面。
最初は、今と違ってインターネットはもちろん、テレビもない時代だから詩の朗読が娯楽なのだろうぐらいに思っていました。
この映画の上映当時いはインターネットすらありませんでしたが。
ドラマで引用される詩
アメリカのドラマなどを見ていても、たとえばレックス・ルーサーはいきなりジョン・ダンの詩を朗読してみせ、「詩の何たるかを知らない者は、誘惑について何もわかっていない」などと言ってみたりします。
こちらはSmallvilleのシーズン2第2話「ノクターン」の一場面。
アインシュタインの引用も
こちらは厳密には詩とは言えませんが、アメリカのドラマ「ザ・フラッシュ」のシーズン1第13話『2人の閃光』でもアインシュタインの句を引用しています。
"Once you can accept the universe as being something expanding into an infinite nothing which is actually something... Wearing stripes with plaid becomes easy."
(宇宙は、実は何かである究極の無へ広がるものであることを受け入れることができるなら、ストライプの柄をチェックと合わせて着るのも簡単だ)
厳密には詩ではなく、明らかに物理学に関する議論をしているはずですが、我々のような物理学に疎いものからすれば、詩が理解できないのと同じくらい、アインシュタインの言わんとすることも、ここでバリー・アレンがマーティン・ステイン教授と何について共感しているのかも理解できてないのですけれども。
日本でも和歌・俳句などが
それはともかく、日本では古来より和歌が歌い継がれ、その出来不出来で人生が決まるようなことがあったことに思い至るようになってから、文学の力、詩の力に思いを致すようになったのだったと気づきました。
日本の古典を読み始めたのも、そういう理由があったからなのだろうと思います。
この和歌や俳句の5・7のリズムが、日本語を形作る根底にある、といった説明がされます。
現代の日本語の日常会話ではそれほど顔を出さないかもしれませんが、ちょっとした文章やリズム感のあるタイトルなどは5・7のリズムを持っていることが多いとされています。
外国後の学習も詩の学習は有効
あまり外国語が得意ではない立場なので、憶測がらみでしかないのですが、もろもろの事象を重ね合わせて思うには、きっと詩の学習は「外国語そのものの学習」には役立たないのかもしれません。
しかし、その文化を形作る背景や背骨のような役割を持っているのではないかと思います。
ロシア語ではプーシキン?
ロシア語でそれは誰かと言えば、たぶんプーシキンということになるのだろう。ロシア・ビヨンドのこちらの記事ばかりでなく、他にもプーシキンがロシア語とロシア近代文学を確立したとの称賛は枚挙にいとまがない。
そんなわけで、しばらく前に購入していたこちらの本も、まだとても読解の実力に足りていないにも関わらず、ちょっとずつ楽しもうと思う。
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