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私の哲学するということ

西洋哲学の黎明、ソクラテスの時代から2400年以上経って哲学的学問も大きく変わり私のような哲学徒でもない者でもネットを通し個人的に学習のための知識が入手できるようになりました。

しかし、そもそも「哲学」とは一体何なのでしょうか。「哲学的だね」なんて言ったりするけれど、「哲学的」ってどういうことなのでしょうか。
人は有限的です。永遠の生を望みながら死を前にしてその有限性を嘆きます。愛する者との生活も永遠には続きません。愛は苦のもとになるかもしれません。
そのような有限性とは、人が限界状況に直面することで明らかになり、その時人は人間の無力さを悟ります。
人間は限界状況における挫折や絶望を通じて、この世界における自己自身の有限性を思い知らされるのです。

その有限性を自覚することを通して、人間はこの世界を超えたものにまなざしを向けることができるようになり、何かの真理へ向かい、自らの生き方や生きる態度を決断できる真の存在へと生まれ変わることができるのです。

この様な局面において、哲学的な問いや考え方の過程を整理する力が問われるのでしょう。これが私自身が考える哲学的ということなのです。
私が悪い頭を使いながら考えてきた事柄を少し整理しましたのでNoteの途上として紹介します。

空と弁証法
この世界は、同一と差異の矛盾に満ちています。
それを神の同一性において矛盾を止揚するのです。
テーゼ(正)とアンチテーゼ=反対命題)、そして、それらを矛盾なく統合したものジンテーゼ=合と西洋合理主義は言います。

弁証法では、単体で存在するものはない、ということです。
世の中のすべてのものは、関わりの中で存在しているということですから弁証法の場合ひどく仏教思想に近似していると今までは思ってきましたが、少し違うのだろうか。

違う言葉で説明すれば、「存在 有」ー(1)に「矛盾するもの 無」ー(2)を明確に提示することで、(1)は否定されますが、また(2)にも否定される矛盾が見つかると、結果的にその二つを乗り越えつつ総合するような「新たな概念」(3)が現れます。


東洋思想、特に仏教は厳密には哲学ではなく基本宗教です。ですから実践や行動を重視します。

ものごとは関係性において存在するが相互矛盾や相互否定も含み、相互に依存しあっている。これを東洋では空と呼んでいます。

関係性によって現象が現れるからそれ自身で存在するという実体=自性はない。
ですから、これを以て縁起により全ての存在は無自性であり、空であると論証しているのです。

空=無自性=縁起となります。
仏教の歴史的思想家竜樹は「ものが存在し、かつ無であるということは同時に成立しない」といいます。
しかし無ということがなければ有ということもない。つねに、有と無の両方があるということです。

そして有なくして無もない」といい、さらに彼は、この事について次のように言っています。

「有」と「無」のいずれかに執着する立場を偏見として否定する。このような立場が可能になるのは、「有」と「無」は相互依存していて、それらには自立的な存在根拠はない、という縁起思想だからであると。

あらゆるものを、相互依存の関係で理解するから東洋では、仏教の縁起と中道は同じ意味になるのです。

弁証法では否定の否定は肯定といわれ有に重きを置きます。仏教の論理においては、肯定(有)よりも、否定(空、無)の方が 中心的になっています。

例えば無即有・有即無とは、宗教において絶対が 相対に自らをあらわにすることであり、その関係の仕方についての、無(絶対)の側・有(相対)の側 における描写と考えられる。

形づくられたものという意味で、それらは実体として存在せずに時々刻々と変化しているものであり、不変で実体はなく、すなわち「空」である。

「空」は「無」や「虚無」ではなく、存在する宇宙のすべての物質や現象の根源の目には見えないエネルギーであり、宇宙に存在するすべてのものはこのエネルギーが刻々形を変えているです。

すなわちエネルギーが「空」であり、「空」から生み出される形象が「色」と解釈される。

この世に存在(有)するものは実体としては存在せず(無)、時々刻々変化してやまないもの、瞬間瞬間何かに成りつつあるものとすれ有とか無の対立を越えそれを一体として捉えた存在論がなりたつのだろう。それを空とも中道ともいうのです。

次は少し視点を変えます。
1 弁証法を次のものと定義します。ヘーゲルの弁証法はあるもの(テーゼ=正)と、それと矛盾する、反対のもの(アンチテーゼ=反対命題)、そして、それらを矛盾なく統合したものジンテーゼ=合といいました

2 仏教の構成要素は、実践的には「智慧」と「慈悲」、哲学的には「空」と「唯心」から構成されます。

一切の現象が空(平等)であると知ることは新たな智慧を得たことです。この智慧には慈悲が必要です。なぜならば、愛や慈しみは本当の智慧に根差したものでなければならないからです。端的に言えば差別心のない全てに平等の愛ということです。

「色即是空空即是色」をみて、「弁証法」に似ているとお思ったが私的に、これは「弁証法」と少し違うのではないかと思うようになってきた。

空の理解には二通りあるという。「色を分解してゆけば、結局空になる」という俗説は「析空観しゃっくうかん」と言って、あまり便利でない考え方といわれる。

析空観とは人間,心,また一般的な存在を種々の構成要素に分析したうえで,人間もそれ以外の諸存在も,実体をもたず,空 (くう) であると想念することです。分析的というか観念的な空の理解といえよう。

対し「体空観」は、先ほどの析空観(しゃっくうかん)に対するもので言語を絶して空を体験的、直感的に理解するものといわれる。

諸法を分析するのではなく,そのまま幻のごとくであり,空であると観じる方法で大乗仏教の空観とされる。

そして「中道」である。中道とは「内にも外にもとらわれず、有にも無にもとらわれず、正邪にもとらわれず、迷いを離れ、覚りにこだわらず、中流に身をまかせ、道を修めるものの考えが、中道であり、その生活の指針に沿うものが中道への道である。

仏教は、哲学のように「正反合」を求めるものではありません。現代物理学は宇宙の数千億の星々と私たち命は同じ素粒子と論じます。

人間はわずかな期間にも代謝が行われて昨日の細胞は今日の細胞ではありませんこれが命です。
こう考えれば瞬間瞬間の於いて同じ命は無く、人は絶対唯一の個性であるといえます。弁証法には絶対という解はありません。

中道の「中」は、2つのものの中間ではなく、2つのものから離れて矛盾対立を超えることを意味し、道は実践・方法を指すものでこの意味において弁証法とは異なるものであろう。

合理という分別:合理的とは自我意識優先の考え方で分別の別名です。分別は有限の別名です。有限は論理的限界を表しています。

今世界がその限界に来ている事がその思想として現れています。物事を論理的にだけ割り切ってゆく事には限界が在ります。世界の矛盾、心の矛盾は自我意識だけでは解消できないという事です。

秘すれば花:秘すれば花と世阿弥はいいます
これは、能茶道華道の伝統文化が禅の影響を受けて発達した概念となったものです。造り手と受け手の感性のやりとり、交じり合いの文化です。

大きく言えば自然と自分との交流こそが日本文化の特質なのです。
日本庭園で言えば、たかが庭園といえども見る側の力量を問います。
日本庭園自身は全てをそのまま見せません。見る人は作り手を含めた自然の表現力を見抜かねばなりません

自然の表現力とは何かといえば、部分が全体を表すことです
自然の景は空があり岩があり苔も緑も紅葉もありそれら全体があってこその空間です。

作庭は見る人にその景全体を想像させるものです。
植生は木の間越しという演出を醸します。

木の間越しに見え隠れする小景が全体をも創造します。見る者をして秘するものが読み取れるのです。このように、日本庭園は見る側に考える余地を残すのです。

これが、能や茶道、華道などが禅の影響を受けて発達した伝統文化なのです。

作庭家と見る受け手の交感を生むのが日本の庭園なのです。
花がきれいだな、鳥のさえずりが心地いいなと感じ、心が解き放たれれば、自然に自分自身と向き合うようになるのです。

つまり、庭は、自分を振り返るための場なのです。
ですから、何回か同じ庭に行くことがお勧めです。

同じ庭でも、季節や時間帯、光の当たり方、花や緑の色、空気の温度などによっても違って見えます。その変化を感じることで、留まることなく移ろいでいく時間のなかに自分が生かされていることを実感できるのです

諸行無常を科学する
行く川の流れは絶えずしてもとの水では無いのです
私も社会もこの流れに他なりません。

ある方向性という秩序に生きて生かされるということです。
この秩序をエントロピー(の増大)といいます。

水はポテンシャルという潜在エネルギーが仕事をし、泡を作り流れを作ります。
水は自らは元に帰ることは出来ません。

水の潜在エネルギーの一部が熱として失われたからです
私も食べ物を摂りエネルギーを補充してこそ生き長がられます。

私という固体や社会は食べ物や情報というエントロピーを消費しているのです。

エントロピーの補充がつかないとき死が訪れます。

エントロピーは無秩序な状態の度合いを表すもので、無秩序な状態ほどエントロピーが高く、整然として秩序の保たれている状態ほどエントロピーは低い。

このことを、人と人との結びつきに適用すると、知らない人との関係は高エントロピーな関係であり、絆(きずな)が強い関係ほど低エントロピーな関係だということになります。

「生命体」や私たちの「社会」は、『エントロピー増大の法則』に抗して、常にエントロピーを減らすことによって成長を続けています。

すなわち、私たちは、『マイナス(負)のエントロピー』を喰(く)って、個体や社会内部のエントロピーを減らすことによって生き延びているのです。

『マイナス(負)のエントロピー』の概念は、『ネゲントロピー』 と呼ばれています。
 
さて、私たちは、いつまでネゲントロピーを喰って生き延びられるのでしょうか。

万物は、自然のままにほっておくと、そのエントロピーは常に増大し続け、外から故意に仕事を加えてやらない限り、そのエントロピーを減らことはできない。これが「エントロピー増大の法則」熱力学の第二法則です。

生命体は、食べ物も食べず飲み物も飲まない状態(閉じた系)にほっておかれると衰弱し死んでしまいます。

これが、エントロピーが増大したときの生命体の結末です。だから、生命体は、外部と開いた系を構成し、食物や飲物を摂取し、排泄することによって生命を維持しようとします。


輪廻転生ということ
人間のこの世での行為は倫理上の結果をともない
行為の善悪は宇宙そのものに何らかの影響を与えます。

その影響こそがこの世での価値をきめ人生に意義をあたえるのです。
宇宙の背後のもの「精神的実在」に
人間のカルマ(行為)は影響を及ぼし

自身の意識エネルギーは精神的実在へ帰納する
そして所縁に応じ再び質量化する
この世の行為が後の結果を招くのであれば
自分自身の行為に責任を自覚をもち
主体性を持ちこの世を生きねばならないのです。

世阿弥は秘するから花は美しいといい
秘しているから尊いといいます
美はあからさまではいけないのです
本当の価値 神髄とはそのようなものです。
一生忍んで思ひ死する事こそ恋の本意
一生胸に秘し、忍んで思い続けるのが恋の神髄だからです

心を求むるに不可得
真実は無限
真実は無際限
これが真実と思えば もう真実は離れる
真実は手応えがない
しかしその真実(自然の摂理)に私は生かされている
この気付が達磨の公案 心を求むるに不可得

東洋的愛のエッセンス。
学んだ歴史のエッセンス、詩のような形にして表現する試み
愛は自己否定
だから創造
だから自らを働く
愛は命
命は愛
だから生きることは創造
意識の中の知性は分別
だから知性は有限愛は無限
愛は生命創造 触れるものに皆命を与える。

私は誰、人生を送ることは
自分探しの旅
私とは誰
私とは何

達磨は答へていう
「不識 ふしき」

物事の道理を知らないことでもなく見識がないことでもないただたんに知らないでもない心作用を統括する心の働き、意識でもない
業の因でもない
私は誰と問うのは意識そのもの

では自分が意識でないとすればそれを問うものは誰
私が私であるためには私でない私が必要
これは、私の中に私でない私ががあることを
意味する。

私が私自体であろうとする時には、それはすでに
自体の外にある–非私である。

もし私がその中にそれ自体でないものを持って
いないならば、私を私であらしめるために、
私から非私が出てくることはできない。

私はこの矛盾ゆえに、わたしである。
そしてこの矛盾は、われわれが論理化を行なう
時にはじめて出てくるのだ。


 


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