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評伝 ラフカディオ・ハーン

1、憧れの国日本へ (浅原録郎)

1890年(明治23年)3月18日、カナダ太平洋岸バンクーバ港を最新鋭汽船アビシニア号は日本の横浜へ向け静かに離岸した。

デッキに佇みこの北米最後の風景を見つめる、アングロアイリッシュの父とギリシャ人の母を持つラフカディオ、ハーン40歳の心には惜別の情といったものは無くこれから向かう未知なる東洋の国、仏と神々と霊性の島日本への憧れと期待感で満たされていた。

少し前の時代には太平洋横断の船旅は多くの危険や時間を要し決して快適とはいえない旅であった。しかしアメリカの経済的発展と貿易量の増大に伴い効率的内燃機関を搭載した汽船が開発投入され横浜までは僅か2週間ほどで到着することが出来るようになっていた。

それも富豪や軍人だけでなく一般人もちょっと無理すれば可能な船旅であった。
そんな貨客船の一つカナダ太平洋汽船の所属、アビシニア号(3600トン)は生糸の輸出で賑わう横浜の鉄製大桟橋に到着した。
彼には1人の同行者、挿絵画家がいた。当時名うての紀行文作家として知られたハーンはニューヨークの出版会社ハーパ社とカナダ太平洋鉄道汽船の両社の間で日本旅行の紀行文を送る契約を結んでいた。

 しかしハーンは船上で契約内容を知り不満に思いこの契約を破棄してしまった。これはハーンの失業を意味したが彼はそのことについて余り心配している風情を見せなかった。

何故ならば19歳でアメリカへ向かう前2年程住んだ巨大都市ロンドンでの生活が後見人、大叔母の破産により経済的援助が失われ、下層労働者として辛酸を舐めたことや当時経済的、政治的苦境にあった祖国アイルランドの多くの人達と同様、新天地アメリカへの移民を決意し、移住の地、シンシナティで、日々食べ物にも困窮する経験があったからである。

このような状況下の中で労働者や実業には向かない自身の特性を見限り暇を見つけては図書館で一人勉強し文筆で生計を立てるジャーナリストへの道を自ら切り開いてきた自負があったからである。

2、横浜到着
 
横浜には4月4日に到着した。この当時日本の最大の輸出品は生糸であり、世界最大の集散地であり、輸出港を擁する横浜は開港後僅かな期間で大きな賑わいの都市へと変貌を遂げていた。

上陸後ハーンは山下町93番地にあるインターナショナルホテルに旅装を解いた。
 食事を摂る時間をも惜しみ人力車を雇い以前から関心のあった寺への訪問を開始した。
彼の仏教の知識や見識は、デイリィ、シティ、アイテム社にジャーナリストとして在籍中、エドウイン・アーノルドの「アジアの光」の書評を書いたことが始まりであった。

 当時の思想界を席捲していたハーバート、スペンサーの総合哲学を読んだ後、更に仏教思想に影響されるようになっていた。

 「アジアの光」は釈迦の生涯やお教えを叙事詩的表現で書いた西洋社会初の仏教の啓蒙書であり、スペンサーの「総合哲学」は、ダーウインの進化論を社会学に応用した論文である。

スペンサーの理論は科学と宗教を結合づけるものとして世の評判となりハーン自身「スペンサーの学徒」と自らを称した程であった。

 彼が何故これほどにこれら彼らを通し仏教に心引かれたかといえば、仏教の持つ「縁起説」「輪廻転生論」といわれている。

 縁起説は時代と供に煩瑣な理論展開を見せるが、単に釈迦の唱えた「此があれば彼があり、此がなければ彼がない、此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す」と理解した方がわかりやすい。

 人の「生老死」は、因としての生があるから果としての老死の苦があり、この苦は自己保存本能から生ずる。
 執着し所有しようとする煩悩に自己が生きれば結果として苦がありそれを脱却すれば苦からの開放がある。
 そして、現在の人の在り方は過去生の表れであり、現世の在り方が未来生につながり、餓鬼畜生界から天上界までを「輪廻」を繰り返すという世界観、生命観はインド社会には古来からあり仏教にもその考えは、すんなり受け継がれていた。

 仏という概念はこのような六道輪廻を越えたところのステージであり一般的に仏教では仏に生まれ変わることを「転生」という。
キリスト教の入って来る以前紀元前5世紀ぐらい前のギリシャやケルト民族にも万物に精霊を認め、多神教の神々がいた。

 ギリシャやケルトの世界も輪廻転生の世界観があり、この思想はギリシャを基点にして東のインド、西のケルト民族に伝播したものであろう。
 スペンサーの唱えた社会進化論を通し仏教も一種の進化論と考えたハーンの理解はどのあたりにあったのだろうか。

 彼は大乗仏教を指して高度の仏教」と呼んでいた。
それが、何を指すのか判らないが推論すれば次のようなことであろうか。
 釈迦の唱えた「縁起」「諸法無我」は自我そのものを縁りて起こる現象と捉える。
 現象であるから依るべき実体がない。それを働く本質こそが生命の実相と捉える。夢幻の自我に執着し対象化することにより自然本来の在り方から遠ざかりあらゆる差別相が生まれる。
 自と他の対立を離れた平等性に至る事が悟りであり生命の実相でありそれが慈悲の自覚をもたらす。
 仏教徒の究極の目標は平等智の獲得と慈悲に根ざした生活である。歴史的には仏教思想は「無我」から「空」と発展したが存在するものの在り方や形は環境からの圧力、進化圧により決定される。
 存在するものに定性はなく全てが変化するから無ではない。空(不生不滅のエネルギー体)の本来的働きがあるから縁起する。
 不生不滅体の生滅を縁起(変化)という。

 この変化の力、環境からの進化圧を受け一途に進化の方向を目指してゆくのだ。輪廻転生を進化論になぞえればこのような意味となろう。

 ハーンはキリスト教のように永遠に変わらないとする夢幻の自我に固執すればするほど人類の不幸は収まらず慈悲の精神は起こらないと考える。
 仏教の慈悲の精神こそ人類未来の究極の宗教であると考えていたのだ。

 ハーンが日本へ発った4ヶ月前(1889年明治23年)にハーンの同僚であった女性ジャーナリストの草分けエリザベス・ビスランドが世界一周の途上最初の訪問国であり東洋の玄関口日本の横浜を訪問している。

彼女は美貌な上、才能があり生涯を通じハーンが憧れを抱いた人であったがその旅行記を読んだ彼の羨望は日本行きへの熱き思いを熟成させる結果となった。

 彼女の日本への第一印象を拾ってみれば、
「真西に向かってずっと航海を続け、私達はついに東洋に到着した。本当の東洋。東洋のどこかでなくて、東洋そのもの。人間とその信仰が誕生した場所。詩歌や陶器、伝統、建物の生まれた土地。」「ここはまさに妖精が住む緑の岡」「夢見ていたよりももっと素晴らしい場所」と絶賛する。

 さらに「実在のエデンの園があったのだ。ほとんどパラダイスに似たところ」とくれば退屈で単調な船旅から開放された点を差し引いたとしても彼女の興奮が手に取るようだ。
 ハーンも彼女から日本訪問の書簡を貰っているのでこの心象はハーンの渇望となりついに出版社等と日本行きの契約を結ぶことになった。
 ハーンは在米中に仏教に関する最新の知識、しかも高度の知識を持っていたことと神が人間を支配し人と懸絶するキリスト教的宗教観に辟易していた。精神の窒息状態であった。

 英訳本の古事記を読み、そのおおらかさに惹かれ、仏と神と人間の一体を説き全てが差別なき寛容と慈悲の精神におおわれた国に生きたいと願うまでになっていた。

 西洋で生きた今までの自己が死に、転生して仏の国へ生まれ変わることこそハーンの輪廻転生であった。
 横浜に来てまもなくハーンは最初の手紙をビスランドに書き送った。

 「私は彼らの神々、習慣、衣装、鳥の囀るような歌、家、迷信、欠点、その全てを愛します。しかし彼らの芸術は、ちょうどヨーロッパの初期よりも古代ギリシャの芸術の方が優れているように、我々の芸術よりはるかに進んでいると思うのです。」
「自分は生まれ変われるのなら、日本人の赤ん坊となってこの世に生まれ、彼らの頭脳のように感じたり見たりしたい。」
 放浪癖もあり一箇所に留まることもしなかった男が訪日後僅かな間に日本の土になり輪廻転生し日本人に生まれ変わりたいといっているのはこの素晴らしいが複雑な文化と伝統を理解するのは日本人として生まれ変わらねば到底無理であろうと考えた弱気とも思える。

 横浜到着後、食事時間も惜しんで人力車で仏教寺院を探しに飛び出して行ったハーンであったがこの様なせっかちとも思える行動力こそハーンの良さでもあるが今回日本の旅行記を寄稿して生計をたてるはずのつもりがたちまち頓挫して所持金も底をつき日本での職捜しに奔走する羽目になったのは彼の人生に於いて常に付きまとった短気と無計画性という性格的負の要素であった。

 ともあれ、生国であり母の国ギリシャで多感な少年期を過ごし、父の国アイルランドでは、その歴史風土がもたらす多様な文化の伝統が「三つ子の魂百までも」として彼の精神構造の基底をなしていたとすれば熱心なカソリック教徒であった大叔母からの厳しいカソリック的教育と躾は彼には殆ど反りが合わなかった。

 この反りの合わなさはフランスの神学校に入学するも直ぐ退学をしてしまった事実からも推測されるのである。
 ハーンが横浜で最初に訪れたお寺は定かではないが成田山別院ではないかと最近のWebでは教える。

 そこで英語の話せる眞鍋晃という青年学僧と出会う訳ですがこの時代英語の堪能な日本人との出会い自体ハーンの日本に於ける成功を暗示させるのであった。
 人力車に乗り込んだ彼の日本語の第一声は「テラ ヘ ユケ」であった。眞鍋青年はハーンに問う「貴方はクリスチャンですか
ハーン「いいえ
眞鍋「仏教徒ですか
ハーン「そういうわけではありません
ハーン「私は釈迦の教えの美しいことと、その教えを奉じている人たちの信仰を尊敬します
眞鍋「イギリスやアメリカにも仏教徒はおりますか
ハーン「すくなくとも仏教哲学に関心を持っているものはたくさんいますね
二人の会話をハーンとこの文を書く自分に置き換えたとしても違和感はない。今を生きる自分と違和感がないという意味である。
仏教徒ですか?」と問われれば自分には「Yes」と答える自信はない。しかし仏教哲学や文化にはずーと関心をも                                                                                                                                                                                                         ち続けてはいる。
 凡そどの宗教にも信と云うものが無ければならない。信のない宗教は信仰の対象にはならないしその教徒とはいえないからである。仏教では信とは仏、法、僧の三帰依である。
「夢の途上 ラフカディオ、ハーンの生涯 アメリカ編」を書いた工藤美代子氏によればこの辺りの事情を次のように論評している。
「ハーンの興味の対象はすでに日本人の精神世界にあった。」「この当時の日本人の体格や住居の小ささから訪日した外国人のほとんどがお伽の国と感嘆したがハーンはそれ以上に仏教哲学に関心をもって、この国の人々の精神構造を知りたいと考えていた。だからこそ「テラ ヘ ユケ」と車夫に叫んだのだ。
 八月下旬ハーンはニューオルリンズ当時知り合った文部省の役人服部一三らの助力で松江中学での英語教師の職を得、眞鍋青年を案内係に松江に出かけることになった。
 正規の大学を卒業していない彼の学歴からいって地方といえども師範中学校の教師の職を得た事は幸運と言って良いことなのであろう。
 ともかく安い俸給ながら日本での経済的窮地を脱したことは彼を安堵させた。

3、神道の国山陰へと続く



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