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生命科学と哲学

このブログでいくつか書いたように、デカルトの二元論は、人間の身体を機械に見立て、近代医学の発展に寄与したが「人間を機械としてしか見ない」という批判は、二元論の影響の深さを示している。

17世紀に科学誕生後、哲学に科学の及ばない対象を求める傾向が現れる。例えば世界を考える時、自然の理解については物理学や天文学、すなわち科学に任せようとする意識が優勢になっていくが、その結果哲学の対象は人間の知識や理性へと向かい、これがイギリス経験論を生んだという。

当時「経験論は神経科学の始まりかも知れない」と言われ、経験論の課題は現在の脳科学者の課題とオーバーラップしている。
この意味することは、人間の知性は科学の及ばない課題として、自分の頭でじっくり考える中で理解すべきが哲学の対象として位置づけられたことです。

デカルト時代、自分とは、人間とはという問いでとどまっていた課題が、「人間の知性や理性」はどのように形成されているのかという、より具体的な問題として扱われた。

そして、近代哲学者のヒュームによって、経験論は徹底され、私たちの知性や理性は全て経験の塊で、特別な自己すら存在しないとまで言ってのけた過激な思想が誕生する。知覚すること以外は何も実在しないと説きました。 ヒュームによると、客観的な世界は実在しません。 心つまり自我 を実体と考えたバークリーを否定し、 心は知覚の束にすぎない とヒュームは考え、唯心論さえ否定しました。

我々の知性が経験で決まるというヒュームの哲学は、現代の生命科学の視点から見ても正しいと言える一方、それを支える脳については対象から除外してしまっている。
このヒュームの経験論最大の問題をどう解決すべきか、また人間の知性や理性、さらにこれを拡大して道徳や判断がどのように形成されていったのでしょうか?

ヒュームが生きた18世紀は、啓蒙時代と呼ばれています。啓蒙時代のヨーロッパでは、それまで絶対であった宗教的な権威に対する疑問が生まれ、物事を科学的に理解しようとする試みが流行した時代でした。

近代科学の前提は、機械論的・唯物論的な自然観・生命観であり、対象を部分・要素に分解し、因果法則にもとづいて「分析」する方法です。

とは言え生命や心は、分析的な自然科学の方法では十分に捉えられない。
機械論的な自然観や生命観の視点と異なる「生を生それ自身から」捉えようとする哲学的考察も大事だろうといわれ始め、その上で人間の精神や心の働きを脳の構造と機能という視点から探究する脳科学がさらに発展したのですが、最近の研究では、「脳は機械とは違って、人間が設計したものでないため」脳はその複雑な構造と機能により、21世紀にも依然として未知の世界のままだろうという、意見も根強い。

人間は理性を持った人格的存在である。
科学は有用な技術を次々に生み出し、倫理は社会にとってその価値を判断する。
この考えは、おかしいのだろうとする考えもある。生き物としてのカテゴリーに属する人間を、生命 科学は生命として、つまり物質として理解しようとし、対し生命倫理は精神として、人格とし て理解しようとするからである。

先の記事でも述べたデカルト以来の二元論がここでも繰り返されることになる。
けれど も人間も生き物の一種であるならば、人間という生き物を包括できないような生命観が正 しい生命観だとみなせるのだろうかと問題提起がなされる。
ゆえに、新しい生命科学に基づいた現代の生命観、人間観を打 ち立てようとする動きが、科学そのものの内部に出てくるのは当然なのであろう。

DNA の構造と機能を一 つずつ分析して生物の部品調べをするのではなく、個々の生物が持っている DNA の中に 書き込まれている歴史を読み解くことによって、地球上の生物の進化の過程を調べ、全ての生物に共通の DNA がどのように組み合わされてこれほど多様な生物が生まれたのかを探求する方法が新たな生命観を生み出すです。

すべての生物は、親から子へと情報を受け継いでいくためのDNA(デオキシリボ核酸)を、細胞の核の中などに持っています。
それらは生命の設計図とも呼べるもので、そこには、生命の歴史が刻まれています。DNAの研究は、生命について根本から知るためのものなのです。
これらDNA研究は新しい視点、直接的な遺伝的証拠として現代に生きる人類に関する研究をより豊かなものにしてくれると期待されています。

しかし理性を、物質と置き、理性が物質を論理的、客観的に分析して普遍 的なものを記述する、という従来の科学にとどまる限り、科学は自然や生命を捉えることは できない。

なぜ科学はその統一的理解を多様と結びつけられないの か。
普遍、統一を求めてきた長い旅が、生命を離れての理性に依拠したものだったとすれば、  それを多様と結びつけ、日常性をもたせる方向への転換の試みが、再び基本を生命そのものに戻す作業と いえるだろう。

現在話題となる生命誌(生命の歴史)は科学を否定して別の道を示すのではなく、科学の 動きを素直に捉えながら、物理学を含めた科学自体が歴史に移行しつつ理性から生命へと平行移動している現状を示している。

ゲノムは、すでに述べたようにDNAという分子であり、1個の細胞を作る生命の単位であり、個体をつくりあげるものであり、種を決めるものである。

つまり、生きものの階層を貫くものである。では、これはどのようにしてできたか。今ある生きものの中にあるゲノムは、その親から伝えられたものであり、その親のゲノムは…とさかのぼると生命の起源に行きつく。つまり、ゲノムは歴史の産物であり、その中に地球上の生命の歴史がかきこまれているのだ。

これを解読する作業一具体的にはゲノム解析、発生や進化の解明など一を行なうことにより、生きものの本質が明らかになり、その中での人間の位置が見えてくる。これが21世紀の生命観・人間観・自然観の基本になるのだ。

ゲノムを単位として、その歴史を読み解き、それを生命の歴史物語として描き出す学問(具体的研究作業の多くは分子生物学になる)を”生命誌”と名づけて提案する活動が始まっている。

生命誌では、明かに生命について、「人間の歴史を通じて生きものとの関わりから形成されてきた概念(日常でマクロ)と物理や化学の言葉を使って説明される因果関係の解明とが融合している。これはミクロとマクロ、学問と日常をつなぐだけでなく、従来の二元論を越えて、分析還元と総合、などの視点を統合するものなのだ。(この項は京都大学大学院文学研究科のレポートの一部を引用)

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