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これからの存在論

生 のみが現存する 在り方(有り方) が崩落 しやがて人は死ぬ。生 があわせもつ死 とい う無的側面が前面に押 し出され て くるのである。

私たちの存在の此処 では、生 は限 りな く無へ と近づいている。それが存在の真実なのだ。

それは生命体だけの問題ではなく無機的なものも同様ではないのか。
例えばここにある茶碗は目にも目得て、触ることもできる確かな存在として有る。
そしてその存在を確かにしているのは、お茶を飲むためにあるというその存在感の意識づけだ。

ハイデガーによると、哲学は 存在の意味を見いだそうとして きましたが、存在を理解するには、 まず私たちにとって存在するとは何を 意味しているのかを、考察しなければ ならないのです。

人生の意味, ハイデガーの着想は、次世代の、特 にフランスの哲学者たちに大きな影響 を及ぼしました。

20 世紀後半に台頭し たその哲学を表す、「実存主義」という 新しい用語ができました。
人間の実存 を考察する――とりわけ、ますます神 や宗教の影が薄くなってきた世界にお ける、人生の意味や目的を探求する哲 学です。

実存主義の主要な哲学者、ジャ ン=ポール・サルトルによれば、私た ちはひとたび自らの実存を自覚すれば、 人生に意味を与えるべく、自分自身の 目的をつくりださなくてはならないといいます。

いったいなぜ存在があって、死んでいく我が身がたんなる無ではなく大事なのか、それを問題にします。
いつか死ぬということをしっかりと意識し、今と真剣に向き合い、本来の自己目的を選び取って生きていく。
それによって訪れる恐怖や孤独は、積極的に引き受けていく中で、自分の信念を貫いて生きることが出来るのです。
この様な考え方は日本の道元と軌を一つにする思想だろうか。

強い意志を持って思索し、そして世を去っていった多くの人々がいたようにその人たちを「心強い話し相手」にしながら生きていくことが図らずも哲学をする事に繋がるのだろう。


死が非人間的なものか、それとも人間化されうるものかということは、従来、死は「人間存在の無」に向かって開かれたひとつの扉であると考えられ、無は「存在の絶対的停止」であった。

 この死の非人間的あり方が、人間化へと向かう契機は、死が内面化され、個別化され、私の「個人的な人生の現象」とみなされるときからである。

この具体的な意味は、人生の意味付けと使命中心の生き方を指し、なすべきことをなす生き方をするということなのだろう。

このように理解すれば、自分の人生における幾多のトラブル、殊に死には何らかの意味がある、と受け止めることが出来るのだ。
この事実は私に何かを問いかけてきているのだろうとか、私に何を学ばせようとしているのだろうと受け止めることができるのだ。
ですから、死の個別化とは、私のこの人生はかけがえのないものであり、二度とくりかえされることのない唯一のものだという考えをもたらすことになるのだ。

 この死の人間化に哲学的意味を与えたのがハイデガーである。
ハイデガーにとって死とは「現存在の本来の可能性」であり、それによって、自己は全体として構成される。

現存在はその自由を駆使しながら、さまざまな可能性を実現してゆくものとしての存在である。それ故現存在は存在可能性と言い換えられるのである。

ハイデガーにとって,
現存在としての人間の意味が完全に明らかになるのは、死によって彼の存在が完了したとき、つまり彼の一生が幕を閉じて、全体性があらわになった時だとされる。
すなわち死の人間化は、人間を個別の、他とは取りかえのきかないものとしてとらえさせ、さらには、死によって、人生全体が個人に閉じられたものとしてとらえられるときである。
そしてその個人が個人の人生を、全的に所有できていることが自由と呼ばれていると解釈したのだ。

日本人は季節を移り変わりとして捉えたり、「ゆく川の流れは絶えずしてしかも元の水に非ず」のごとく、変化の大きさで時の流れを捉えてきました。
この世界の最も本質的な要素は「存在」ではなくて、「変化」すなわち、諸行無常にありと捉えているのが日本人の世界観なのです。

ところで、物理学の分野でも「存在」ではなく「変化」を分析する分野があります。

それは熱力学です。
この世界には永遠不変なものはなく、外部世界との出入りのない孤立系では、放っておいたら必ず系は変化して熱平衡に向かいます。
この原理のことを「熱力学第二法則」とか「エントロピー増大の法則」と呼んでいますが、運動力学的な原理と分けて「熱力学的な」基本原理と呼ぶのだそうです。

熱力学的な基本原理で語られる時間とは、上記のように変化を否定した決定論的な力学法則によって演繹される周期運動の数によって計られる「時間」ではありません。
それは、日本人のように変化の大きさで計られる「時間」なのです。

熱力学第二法則で捉えられている時間は物理学で言うところの、確率論的運動論の時間のことで、次々に新しいことが起こり変化して行く物語的動的な時間のことなのです。

決定論(すべてはあらかじめ決定されていて、偶然も自由も存在しないと主張する考え)と非決定論(人間はその意志により必然性に反して振る舞うことができる)というまたったく相容れない概念が物理学にあります。
その二つの捉え方は共にそれを否定できないほど多くの観測事実として正しいと確認されてきました。
そこで、この一見相反する捉え方をどう折り合いをつけてみたら良いかを探る学問が非平衡統計力学と呼ばれる物理学の分野なのだそうです。

我々がこの世界を解明するのは「存在」を解明することだという、あまりにも西洋的な一神教に洗脳された偏った見方であり、その是正が物理学の分析から見えてきたという意見があります。

「存在」を哲学的に語るには、今や数学的な言語を使いこなせることが必要条件になり、遠くギリシャの時代でもパルメニデスの存在とヘラクレイトスの変化という形で論争されている。

改めてこの世界を解明するには「存在」と「変化」の両面から分析しなくてはいけないことが現代哲学の共通認識となっているようです。

現代哲学は現代数学の真似をしたと言って もいいくらい現代数学から影響を受けているといいます。物理学の過渡期に統計力学という分野が提唱されました。
物体と言うのは分割できない粒子からできていて粒子の集合 が物体であり、気体や液体ならば粒子のランダムな運動を熱と考えます。
個体であれば粒子 の振動を熱と考えます。この粒子の運動と言う考え方から「温度」や「熱」というものが定義されはじめました。

また、温度や熱の概念を熱力学では物体として考えていますが、統計力学は熱を「定義しておく と便利な数値」と考えます。
この例では熱力学が素朴な実在論で統計力学が構造主義(構造主義とは、20世紀を代表する現代思想です。人間の社会的・文化的現象の背後には目に見えない構造があると考える思想)と見做される。

現代哲学は、この素朴実在論、構造主義とポストモダン(近代の後に続く時代とその傾向を指す。脱近代主義とも言われる)の総合といわれますが、構造主義は素朴な実在 論も含むところから、熱力学と統計力学の関係は似ていると言います。

昔は存在すると思われていた、すなわち実在論で扱われていたものが、その後存在しないことが 判明したにもかかわらずあたかも存在しているかの如く現在も扱われているものが熱の物質論である。
熱を物質としてみなすことで確立された理論が統計力学で、その過程で熱は物 質ではなく分子などの微粒子がランダムに運動しているものであるとして作られた理論の多くが熱統計力学に進化しました。

熱が物質であるか物質ではないかに関係なく、存在と無のような関係に於いて熱の持つ仕事やエネルギーとの関係、熱の伝導・移動の方向と古典力学、統計力学、量子力学や素粒子論等との関係で整合性がとれてい れば、無くても、有ると仮定して理論構 築した方が実用的であるといいます。(この記述の一部はWeb上の現代哲学の基礎を参照しました)


変化という熱力学第二法則をさらに説明しますと、
「第二法則を別の言葉で言うと、『宇宙は絶えず、より無秩序になっている。』ということです。

私たちは全て、第二法則の働きの中で生きているということです。
部屋を整理整頓するには大変(エネルギ消費)です。

不精を極めれば、ほこりはたかり、かび臭くなります。

家や機械も同様で、私たちの存在(体)を完全に調子の良い状態に維持するのはなおさらです。
そして、衰えの進行はいとも簡単で、私たちがすべきことは何もありません。
すべては、自分で衰え、崩壊し、バラバラになり、すり減ります。このことが第二法則の意味です。

宇宙の熱の平衡化は生命の死を意味します。生命が使えるエネルギが枯渇し、生命は一時的にもエントロピーの低下を計ることが出来なくなるからです。
いうところの進化論での進化は明らかに変形を含みます。
そして、変形にはエネルギーが必要です。先に述べられたような進化は大量のエネルギーと、エネルギーの多くの変換を必要とします。

進化の過程では様々な形態のエネルギーが必要であり、熱力学はエネルギーの運動と変換を扱う学問ですから、存在と変化の二つの分野は明らかに関連があり、熱力学の法則は進化をも支配するはずです。

何等の前提のない状態でも、そこの変化は無秩序への変化です。生命活動は衰えていきやがて無になります。
停止させたり逆転させたりすることができるのは、情報を提供するプログラムによって指示され、摂取、貯蔵、転換の機構によってそのシステムの複雑な構造を形成するために必要な特定の仕事に変えられた、外部のエネルギーだけなのです。

もし情報を提供するプログラムか、転換の機構のうちのどちらかでも欠けていれば、外部のエネルギーがいかに大量にあろうとも、その系に秩序が増加することはないのです。その系は熱力学の第二法則に従って崩壊していくのみです。

「しかし、生物は、その機構の複雑さの程度において、そして遺伝的プログラムを持つことにおいて、無生物とは異なります。・・・胚に納められている遺伝的な指令が、成体の形成、それが木や魚、またはヒトになるかを指示します。その過程は、目標に向かったものですが、遺伝的プログラムの指示によるものであって、外部からの指示によるものではありません。このようなものは無生物の世界には存在しません。」
この論は進化論者として有名なエルンスト・マイア博士の説である。

以上のことから創造論といい進化論といい、また存在とは何かとの問いや答えに今や数学的な言語を使いこなせることが必要条件になるということの証左なのでしょう。

最期に「無」、端的には「死」というテーマを様々な角度から考え、論じることが科学者、哲学者は言うに及ばず積極的に求められる時代を私たちは迎えようとしている。
また、「有」や「無」についてのこれまでの常識的な観念や論理それ自体を問いなおし、新たな思考の枠組みの中でこうしたテーマを考え深めていくことが大事なのだろう。
宇宙は質量(重さ)のない「実在のないモノ」で構成されているとしたなら本来存在するものは無と言う事なのだろうか。無から有を生ずることがないからAはA非ずしてAであるという仏教の即非の論に戻されてしまう。

そしてスリット実験によれば電子は、観測していないときは霧(無)のように広がっていて、 観測者が位置を観測すると一点に縮まって普通言われているような電子(有)になる。
これは、質量のない人間の意志のようなものが本来的あり方に影響するということか。
無から有を生じるという唯識と量子論とのつながりかたも面白い。
量子力学論で有名なシュレーディンガーの方程式の解は、電子の分布ではなく、その存在確率を示しているからです。
ここでの存在の解は統計的確率論で示されているが、
私の頭ではそのことがどのような哲学的思考を導くのかわからないが、従来ヒトの意識は脳細胞ネットワークを流れる電気信号パターンによるとされたのが近年では、生命活動のさまざまな領域において量子的な効果が利用されていることが明らかになりつつある。
意識の背後に量子的(不連続)な脳の状態とその間の確率的遷移過程が存在する人の認知意識の量子効果が今後の存在論を大きく導くことになるのだろう。


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