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どういった馬主を登場させるか(3月第3話の解説)

 
 野球であれば球団が、相撲であれば相撲協会が、アスリートにそのプレーに対するお金を払うことになる。ほとんどのスポーツでは、何かしらの団体が金主になっている。でも競馬はちがう。馬主という個人が雇い主になって、その結果に対してお金を払う。
 
 だから競馬小説では、馬主も重要な登場人物になる。団体であればぼやかすこともできるけど、個人だと、そのキャラクターをしっかり書かなければならない。
 
 この小説では、年に2,3頭しか持たない零細の馬主さんにした。その方が、主人公弥生のキャラクターとうまくかみ合うからだ。
 
 もっとも、2,3頭といっても中央競馬でのことなので、すごいことだ。中央競馬では、多くの馬は数千万円から数億円と高額だ。それにともなって、厩舎の委託料も高い。もちろん地方競馬と比べ物にならないくらい賞金も高いので、勝ち上がっていけば何億という金が入る。でもそれは何千頭というなかの数頭で、ほとんどの馬主はマイナスだ。
 
 逆に言うと、こういった仕事とは別の余禄部分で何千万も損できる人というのが、中央競馬の馬主さんなのだ。なにしろ、馬主になる資格が、かなりハードルが高い。ざっくり言うと、安定して毎年2000万ほどの収入があって、1億ほどの資産を持っていないといけない。これが条件なので、ぎりぎりこれを超えているという馬主はいないだろう。実際にはこの条件を軽くクリアしている人が馬主になっているはずだ。
 
 想像だけど、零細個人馬主さんたちにとって重要なのは賞金よりも名誉だろう。名誉というものは、それぞれの世界や集団によって、あるいは個人によって、価値観がちがう。馬主さんたちには馬主さんたちが持つ価値観が、その集団の中に存在しているのだろう。ぼく個人を考えれば、仕事でいかに成功しようが出世しようが、書いた小説をたくさん読まれた方がいい。世の中から見れば出世の方がいいと言う声が大多数だろうけど、ぼく個人の価値観はちがう。
 
 何千万もかけて馬を買い、月何十万も委託料を払っている馬主にとっては、レースに乗せるジョッキーには言いたいことが山ほどあるはずだ。そのかかっている金額から察して、ものすごい圧力がかかっているにちがいない。でも小説では、その辺りは省くようにした。その部分を書きすぎると、ダークな経済小説になってしまう。でも、あまりに端折ると軽すぎて、競馬を知っている読者から物足りなく思われてしまう。さじ加減がむずかしい。

 玄関に入り、覗き込むように首をすくめながら挨拶をすると、先生が厳しい顔で出てきた。その表情を見て、弥生はいきなり怒られるのかと思った。しかし先生は怒らない。そしてじっと弥生を見つめたあと、怒るよりも恐ろしいことを言った。
 
「上がれ。ハティーさんが来ているぞ」
 
 弥生はビクッと体が震えた。ハティーさんとは、タイムシーフの馬主だ。本名を果野和夫という。ヨーロッパで仕事をしているのと、ちょっとなよなよした感じから、競馬業界では気さくにハティーさんの愛称で呼ばれていた。
 
 ―――そう、だよなぁ……。
 
 レースのあとに馬主が来るのは、当然のことだ。その後の馬の様子はどうか、今後どういったレースを使うか、など、いろいろ相談をしなければならない。ただ、ヨーロッパを拠点にして活動している人なので、今は日本にいないと思っていた。昨日の弥生賞で姿を見せなかったから、勝手に思い込んでいた。
 
 ハティーさんはいつも明るく、とてもいい人だ。だから、怒られることはない。でもだからこそ、余計に辛かった。こういうときは怒られた方がとっても楽だった。
 
 ハティーさんは、毎年2、3頭程度しか持たない、小規模な馬主だった。それでも収入条件など厳格な規定のある中央競馬会の馬主なのだから、すごいことだ。だけど馬主の規模としては大きい方ではなかった。
 
 そのハティーさんが馬主15年目にして、ようやくクラシックを手に入れられそうな馬に巡りあった。クラシックどころかGⅠレースすら勝っていないハティーさんは、寝ても覚めてもタイムシーフのことを考えていると、昨年末からときおり言っていた。だからこんな朝から厩舎に顔を出したのだろう。きっと昨晩は寝られなかったに違いない。弥生は再びため息を吐いた。もうこれ、クセになっちゃうなぁ。そう思うほどに、昨日からため息の吐きっぱなしだ。
 
 応接間で、ハティーさんと向き合った。しっかり謝るつもりだった弥生だが、こらえきれずに泣き出してしまった。
 
「ほんとうに、ほんとうに申し訳ございません。せっかく大きなチャンスをもらったのに、つぶしてしまって」
 
 先のことを見て、もっとリーディング上位の騎手に替えてもおかしくなかった。それほどの、デビューから3戦の、タイムシーフの勝ちっぷりだったのだ。でもハティーさんは、弥生賞でも替えなかった。その思いをつぶしてしまったことに、感情が抑えられなかった。

 
 この小説では弥生にとってやさしく理解ある馬主を登場させたけど、もしこれに続編が書けるなら、冷徹で鬼のような企業家の馬主を出して、ダークな内容で書いてみたいなぁと思う。

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