第21話 社長の秘書
(小説 『チョコっと変わった世界』)
タクシーが走り出して、ぼくはすぐに気持ち悪くなった。
駅まではたいした距離ではないはずだ。行きは歩いてきたのだから。ぼくは俯き加減に目を閉じて我慢していた。
すると車が停まり、痩せた男が助手席から降り、後部座席のドアを開けた。
「こちらにおいでください」
だるさと気持ち悪さで、ぼくは立ち上がれない。男に手を引っ張ってもらい、何とか立ち上がった。そしてよたよたと付いていき、ひとつの建物に入っていった。
白を基調とした清潔感ある内装に、薬品のにおい。病院だとすぐに分かった。
それにしては患者が少ない。痩せた男は受付を通り越して診察室をノックした。他の患者は大丈夫なのだろうか?
「秘書のイチカワです」
「あぁ、どうぞ」
この男、あの社長の秘書だったのか。体中のぜい肉をそぎ落としたような体形は、いかにも切れ者という印象を持たせる。顔にも無駄な肉がなく、頭蓋骨の形が分かるようだった。
「田名瀬食品の専属病院です。どうぞ遠慮なく」
男に促されて診察室に入ると、今度は一転、丸々と太った、こちらは「医者の不養生」を絵に描いたような先生がにこやかに迎えてくれた。
「昨晩診に行って経口液だけ飲ませたんだけど、やっぱり大丈夫そうだな。二日酔いがつらい程度だろ。よし、ブドウ糖1本打っておくか」
そうか。昨晩誰かが部屋に来たことはうっすらと覚えていたのだが、この医者が来たんだな。ぼくはもやもやとした記憶を探った。深夜に医者を呼びつけたり、こうやって好きな時間に治療させたり、あの社長の持っている力が強大であることに、あらためて驚いた。
注射を打たれ、ぼくはまたタクシーに乗せられて、駅まで運ばれた。その頃には、少し体が楽になっていた。
「それでは、来週の社長との約束をお忘れなく」
別れ際、秘書のイチカワが言った。分かりました、とモゾモゾ言って、ぼくは振り向いて改札に向かった。
―― ブドウ糖、かぁ。
現実世界で売っていた、ブドウ糖入りのチョコレートを思い出した。
iPhoneをいじる気にならず、ぼんやりと車窓を見ていた。高架から見渡す、ずらりと並ぶ屋根。この異世界にも、たくさんの人が住んでいるんだなぁ。そして社長やぼくみたいに、現実世界から迷い込んだ人もいるんだろうなぁ。いったいどれくらいいるんだろう。広く世の中に向けて呼び掛けることができたとしたら、「あ、おれも! わたしも!」と挙手してくれるのだろうか。いずれにしても、社長の話と存在は、衝撃的だった。
自宅の最寄り駅に着いたが、ぼくは通り過ぎて大学に向かうことにした。注射が効いて、だるさが吹き飛んでいたからだ。
―― でも、なんとなく、あの秘書にはこれからも会いそうな気がするな。
ぼくは根拠なく思った。
つづく
いただいたサポートは、今後書く小説の取材費や資料購入に充てたいと思います。もちろん、それだけ、というわけにはなかなかいきませんが……^_^;