英語を知ると日本が見える?
日本の多くの人が、英語が不得意なために随分損をしている面があるなと思います。
これは単に一個人にとっての損なのではなく、国としても大きな損失なのではないだろうかと僕は考えています。
もちろん、損と言っても金銭的に損だとか物質的に手に入れることができないものがあるとか、まったくそういう次元の話ではありません。
海外からの情報収集
異文化との比較で自国の文化を考える
実際に異文化の人達との交流の機会
それらが広がらないために、世界の中で日本人がどんな風に見られているのか、日本人がどんな立ち居振る舞いをすれば良いのか、
日本人はどんな国民性を持っているのか、
そんなことに気付く機会を失くしていませんか?
という話です。
映画 「Rocky」の中のあるシーン
映画Rocky(一作目)で劇的な試合をした主人公 Rockyは、二作目 Rocky2 の中ではボクシングをやめて精肉工場で働き始めます。
Rockyが仕事をしていると工場のマネージャーがRockyに突然の解雇を告げ、Rockyも仕方なく離職します。
また、当時は(古い映画なので)なんとも思っていませんでしたが、自分の親ほど年上のコーチ Micky を呼ぶ時には日本のように「さん」を付けませんので呼び捨てです。
『Hey Mick』 とこんな感じですね。
話し方や言葉遣いも、目上とかどうだとかは一切関係なく、対等に会話をしています。
映画を観た当時の僕は、日本との違いなど一切考える事なく、すべて「映画の中の出来事」としてだけ捉えていました。
ところが、仕事の中で色々な国の人と触れる機会、話す機会が増え、世界の中で日本は特殊な国だと気づいた時、Rockyという映画の中で彼がクビを宣告されたそのシーンも、目上の人をMickと呼び捨てにすることも、同じようなことがあちこちの国で現実に普通に起こっていることなのだと実感するようになりました。
現実に僕の目の前の人がある日突然解雇を宣告され、翌日には机の上を片付けている。
まだ20代の若い部下が、40才を超えているであろう上司、しかも部門のトップに立つような人を呼び捨てにして対等に会話をしている。
そんなことが当たり前のこととして僕の目の前で繰り広げられているわけです。
そんな経験の後で、過去に観た映画の中のワンシーンを思い出した時に、
頭で理解するということと、自分自身が人と会話したり見聞きして知るという事は根本的に理解の深さがまったく違うのだと知りました。
言い換えると、海外の人達と交流する機会がなかったら、
日本での当たり前と外国での当たり前がまったく違うということを知らないまま生きていたということです。
レストランの店員
香港へ出張していた時、僕は仕事仲間数人と食事をしにレストランに入りました。
テーブルに注文を取りにきたウェイターに、僕の仲間の一人が軽い冗談を言っただけで、そのウェイターは気分を害したのか手に持っていたボールペンをテーブルに投げつけて厨房へ戻って行きました。
そもそもこのウェイター、日本で言うところの「いらっしゃいませ」などという挨拶すらしていません。
しかもペンをテーブルに投げつけるなんて日本ではあり得ない光景です。
すぐにその場で仲間とそのことについて話しましたが、香港ではこんなことは全然珍しいことじゃないと言います。
ちなみに、僕はシンガポールでも似たようなことを数回は経験しています。
こういう経験、人から聞いただけの場合と自分自身で経験したのとで、感じ方は同じでしょうか?
多分、伝わる温度が全然違うのではないかと思います。
もし僕が英語アレルギーだったら、こんな経験からしか学べないことを学ぶ機会はなかっただろうと思います。
英語を使うとは語学を使うということではない
こんな風に、英語を使うということの意味は、単に話すとか書くとか、読むということではなく、英語でのコミュニケーションの中に入り込むこと。
そして色々な国の色々な人々の色々な価値観や考え方、宗教観や文化の違い、人生観の違い、ありとあらゆることを知ると言うことです。
そういう貴重な機会を得ることができなかったら、お金には換えることのできない大きな損失ではないでしょうか。
英語とはそのための「道具でしかない」とも言えると思います。
例えば、中国の人は「謝らない」国民性だと言われます。
それが良いことか悪いことかという話ではなく、そういう違いを知識ではなく経験で知っていると、こちらも簡単にはごめんなさいとは言いません。
交渉する上で不利になり得るからです。
でも、何も知らない日本人は(昔の僕自身も含めて)、相手から自分の良くないことを指摘されると殆どの場合は「ごめんなさい」から会話を始めます。
でも中国系の人は、何故そうしたのか、どういう理由でそのようにしたのかを説明するところから会話を始めます。
その上で、自分が悪いと思うならごめんなさいと言うこともあります。
決して詫びることをしないのではなく、日本人とは謝る順番が違うのだと言えます。(確かに詫びるという習慣が日本人より少ない面があるのも事実だとは思いますが・・・)
英語であれば世界中で共通語のようになっているので、欧米だけではなく東南アジアのあちこちでもコミュニケーションには殆ど困りません。
日本が見える
こうやって海外の人達との交流が多ければ多いほど、段々と日本が見えるようになります。
今まで日本で当たり前だったことが海外では当たり前でないことに気付きます。
そして、海外では普通のことも、日本では当たり前ではないことにも気付きます。
そうやって日本という国、日本の国民性が見えて来るのです。
一番わかりやすいのは宗教観ではないでしょうか。
日本人というのは、冬にはクリスマスが一大イベント、そして一週間もすると神社へ行き初詣、結婚式は神式の人もあればチャペルで挙げる人もいます。
そして人生を終える葬儀では仏式の人は今も多いですよね。
宗教に関してはあまり頓着していないので、その都度宗教の背景はともかくとして、イベントだけは受け入れるという宗教観、これ、日本人だけなんだと思います。
イスラム教も、ヒンズー教もカソリック、プロテスタント、どの宗教を信仰する人達も皆、信心する神の教えは厳格に守っています。
こういった日本人特有の価値観も、日本人の中でだけしか生きていないとなかなか気づけないものです。
もっと世界の中の日本がどんな国なのか、どういう国民なのか、気付いていくことは本当に大切だと思います。
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