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果たして、唯一の欠落なのか…過剰余剰うえの、幸いという余白なのか。

(2024.3.3 雛祭りに感じたこと)

「孤独」という言葉に触れて…考えること。

この言葉が与える感覚は、年齢とともに変化していくものなのだ、と近頃気がついた。

振り返れば40歳を過ぎたころだろうか、「孤独」という言葉が身心を通過するとき、それまでツンと刺すような感覚だけが酷くあったが、それだけでなく、妙ななま温かさを含んだ感覚に変わってきている。

世の中が変わり、価値観が変わり、結婚観も、仕事のカタチも、何より「自由」という言葉が意味する内容がすっかり変わってしまっている。

時代は変わる、人も変わる、生きとし生きるものは、変わる。諸行無常は、やはりいつの時代も基本だ。
そして「自由」の意味するものが此処まで変わると、私たちの取り巻く環境は、当然のように変わっていき、改めて自由という概念が人間に与える影響は大きいのだな、と改めて気付かされる。

「自由」この言葉を問うことは、常に私にとって「孤独」という言葉を問うことと等しい。

Instagramを見ていたら宇多田ヒカルが話すリールがあがってきてとても興味深かった。
人間は欲しいもの、手に入れたいものにエネルギーを注ぎがちだけれども、実は
すごく欲しかったものが手に入らなかった、失ってしまった、そんなものこそ、実は自分を自分らしくしていくんではないか…
そんな内容のお話だった。

この考え方に触れて、また1つ自分の中にひかりが灯ったような心地になった。
私の人生の時間にとって、とてもあたたかな響きだった。(刺すような孤独の感覚が、生ぬるさを帯びた感覚に似ていた)

私にもまだまだ,欲しいものはある。
手に入れてみたいものもある。
それを否定はしてないし、まだまだ頑張りたいと思う。まだ、失ったものとおさめきれず、望みがある。
ただ、宇多田ヒカルが言った、こうした感覚を知って、その感性に触れられたことは、「自由」の価値観が多様化する中で、意味深い。この言葉が意味することと自分なりに向き合うとき、私自身が感じることを心に留めておきたいと思った。

恥ずかしげもなくやっと最近言葉にできるが、
私は、長い年月ずっと寂しさを感じていた。その寂しさは、幼稚園児だった頃に遡る。一種のインナーチャイルド的なものとしてあったのかもしれない。病院にいったわけじゃないからわからないけどね。ただ寂しさを感じ震える身体を、自分の両手で必死で押さえながら過ごした日々もある
どうすることも、できなかった。両手はしがみ付き合い、両腕は肩をすくめさせ、背中を丸めて、胸を心臓に打ちつけるように縮こまり、呼吸はのどぼとけでで跳ね返されて上がってくるような感覚だった。
ある週末土曜日の夜のことは、もう2年以上も前だけど、鮮明に身体に記憶が残っているし、思い出せる。

そんな風に長く抱えすぎた寂しさは、「孤独」が私の何かの欠落なんだと感じさせるようになっていた

そんな話を笑い話のようにカフェをしながら話せるほど大人じゃなかった私は、ずっと闘ってた。
身体はいつも硬く、心にはダムをはる気持ちで過ごした。

もちろん、楽しさだってあった。
ただ、寂しさという感情と孤独感というものに自分なりの想いがあった月日だった。

孤独にならないために
私が私であれる方法を
自分が自分でいられる場所を
必死に探す過程で、
恋もして、楽しみも喜びも、感動もしてきた

欠落と思って必死になった長い時間
寂しさではないその対極の何かを探して、
手に入れようと、自分を奮い立たせながら
気が付いたらたくさんのものを得ていた。

まだ、昔に探し始めたものが手に入れているのか…わからない。でも、何かは変わり始めていることはわかる。言葉にこそならないが、何かは得ている。そしてそれは思っているよりも多い。

母が、昨日私に言ったことがある。
「あとはあなたが誰が良き人を見つけて一緒になってくれたら、悔いなく死ねる。それだけが、唯一の願いだと」

私は、寂しさ孤独という対極にあるものを、「唯一」と信じて必死に生きてきた。ただ、母にその言葉を呟かれたとき、私にはほのかに満ちる身体があり、見上げた空も青かった。

ふと…孤独は、私にとって…あらゆる余剰の中にある数少ない「余白」ともいえないだろうか、という考えに至った。
母親には申し訳ないが…今が私が1人なのは、孤独を欠落だと抱えてきた時間こそが、両親が私に与えてくれた、私が私ななるための時間だったのではなかろうか、と。

母は、両親を早くに亡くしている。
だからこの想いが強いのだろうと思う。
母もまた、失ったものからチカラ強い自分らしさを生きている人だ。
そんな母の本当に強く闘う姿を家業の姿から見てきた。そして、それはそれで母という個人の彼女らしさの姿であった。
その姿を見てきたから、私は30代の10年間を乗り切れた。孤独の恐怖を抱えながら頑張り抜くのは容易ではなかった。

ふと気がつけば今の私は、
寂しさと欠落さに、必死に向き合い過ごした日々で、出会ったあらゆるもから、私らしさを型どり始めている。まだまだ始まりだ。

私の欠落を余白と受け止めることで、広がった孤独の反対側の世界。やっと始まり出した「この場所」で私らしさを少しづつ、楽しんでいこうと思う。

孤独,寂しさを感じた
欠落という必死さではなく、
与えられている、今ここにある
余白という安心の中で…。

欠落だと思い必死になった日々で
私は、輝いてたものをいくつも見落としきてしまったんだろう。

過ぎてしまった日々を語るのは、ナンセンスなのかもしれない。そしてネガティヴも不用な世の中なのだろうと思う。
ただ、私が今、希望をもってセラピストを目指し学ぶ意志や、自分を愛するために星読を学び続けている志は、その日々がレイヤーとなっているからだ。とても大事な欠くことができない、レイヤーである。

まさに、失ったもの手に入れられなかったもの、その感情の中で自分らしさを創ってきた。
余白が生み出す安心という空間の中。
孤独側から眺め憧れた、安心感という世界。

これからは、この余白をたのしんでいこう。


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