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指名委員会等設置会社は日本に向かない

[要旨]

冨山和彦さんによれば、日本の会社に、米国型の制度である委員会等設置会社はなじまないそうです。なぜなら、企業統治上の主導権は株主であるというドグマが一般的に受け入れられているアメリカのような国でしか機能しない制度だからということです。その米国では、CEOが独断専行であることは批判されず、むしろ独断専行できない経営者は優柔不断であると批判を受けるそうです。

[本文]

今回も、前回に引き続き、冨山和彦さんのご著書、「結果を出すリーダーはみな非情である」を読んで、私が気づいたことについて説明したいと思います。前回は、冨山さんによれば、日本の会社では、組織的情理が、競争上の合理と衝突する場合、合理は情理に支配されてしまいやすく、その理由は、社長は共同体の論理や人間関係などに支配され、潜在意識の中で戦略を決めてしまっているからであり、適切な戦略を断行するためには、会社の体制を変革する必要があるということについて説明しました。

これに続いて、冨山さんは、米国型の会社の委員会等設置会社(2015年に会社法が変更され、委員会等設置会社は、現在は指名委員会等設置会社に変わっています)は、日本にはなじまないということについて述べておられます。「私は、日本の会社に委員会等設置会社はうまくなじまないと思う。社外取締役を中心とした指名委員会、監査委員会、報酬委員会を設けて、取締役が経営を監督し、経営の執行は執行役が担うというこの制度は、企業統治上の主導権は株主であるというドグマ(教義)が一般的に受け入れられているアメリカのような国でしか機能しない制度ではないだろうか。

ここで、『一般的に』の意味は、当然、会社で従業員として働いている人々も含めた社会一般という意味である。それが正しいかは別にして、アメリカは株主主権という価値観がかなり広く受け入れられている。そして、主権者である株主から取締役という『代議員』を通じて経営執行上の権力を付託されているのはCEOだけである。アメリカ型のCEOは取締役会で任命されるが、取締役会を行っていた会議室を出た瞬間から、経営の執行という点において、CEOは全知全能の皇帝なのだ。だから、IBMのCEOが、『パソコンをやめる』と腹を決めたら、事実上、それで決まってしまう。

そこで、OBが、『いや、パソコンはIBMが産業化した事業だから』などと文句を言っても関係ない。さっさと従業員を含めて、中国の会社に売り払ってしまう。アメリカのCEOはそれほどの圧倒的先制君主なのだ。主権は株主にあるけれども、CEOはその地位にある限り、経営執行上は独裁官だ。だから、『CEOが“独断専行で”決めた』という論調の批判を、アメリカでは聞いたことがない。なぜなら、CEOが独断専行するのは当たり前だ、と誰もが認識しているからだ。

そのかわり、圧倒的多数である外部取締役に、独裁官たるCEOが無能、もしくは、暴走していると判断されたら、躊躇なく首を切られる。ヒューレット・パッカードのCEOだったカーリー・フィオリーナが首になったのも、彼女が独断専行だったからではない。彼女がやろうとしている経営がけしからん、と判断されたから首になったのである。逆に、アメリカでは、CEOでも大統領でも、独断専行できないトップは、『優柔不断だ』と批判を受ける。

みんなの意見をよく聞いて、八方が丸く収まる落としどころを探るという調整能力はまったく期待されていない。むしろ、そういうタイプのトップは軽蔑される。日本で部下や同僚から一番愛されるトップは、竹下登タイプだろう。みんなの言い分を聞いて、調整して、落としどころを探して、フニャフニャと物事を決めていく人が尊敬される。完全な村長さんタイプだ。そういう文化的背景というか、組織風土を持った会社をいきなり委員会等設置会社にしても、なかなかうまく機能しない」(218ページ)

冨山さんは、指名委員会等設置会社が日本の会社になじまないと述べておられますが、私は、指名委員会等設置会社以外の会社(監査役設置会社など、従来のタイプの株式会社)も、法律と実態が一致していない面があると思っています。例えば、現在でも、社長がサラリーマンのゴール、すなわち、社長は従業員出身という上場会社は多いと思います。でも、法律では、株主総会で取締役が選ばれ、取締役から代表取締役(=社長)が選ばれることになっています。

もちろん、上場会社ではこの手順で取締役が選任されていますが、取締役候補も会社側が提案し、代表取締役も株主総会の前に内定されている場合がほとんどです。結局、日本の上場会社は、形式的には株主主権ですが、実際は、従業員と従業員出身の役員で人事が決められており、実態は従業員主権となっていると言えます。しかし、実質的に従業員主権の日本の会社に問題があるのかというと、日本の会社では、従業員の帰属意識が高く、それが強みになっていたという時代がありました。

経営学の大家であるドラッカーは、敗戦国の日本が、奇跡的な復活を遂げたことに着目し、その要因を研究していった結果、日本的な経営手法を高く評価していると言われています。しかし、当然のことながら、日本的経営は万能ではありません。冨山さんが何度もご指摘しておられるように、従業員を大切に考えるあまり、合理的判断がなかなかできず、情理的な判断をしてしまいやすいという面があります。話を戻すと、日本では「独断専行」、「ワンマン」、「トップダウン」にネガティブな印象を持っている人が多いと思います。

確かに、ワンマン社長が独善的になり、会社の業績を下げるという話をきくことがあります。最近の例では、製紙会社の元社長が、会社の資金100億円以上を私的に流用し、特別背任罪で懲役4年の判決が出るという事件がありました。しかし、その元社長はワンマンであったために、会社の資金を私的に使うことをしてしまったのかもしれませんが、副社長時代は家庭紙事業を黒字転換させたという経営手腕もあったようです。ここでお伝えしたいのは、独断専行で決めたことが必ず悪い結果になり、ボトムアップで決めたことが必ずよい結果になるということではないということです。

したがって、ボトムアップで決めたことは、必ずよい結果になると考えることは誤りということです。決め方と結果は、直接的な関係はないのです。でも、前述のように、「独断専行で決めたことは、悪い結果に結びつく」と、悪い結果の原因を決定方法にある考えてしまう人は少なくないと思います。このような誤った先入観があるため、日本では、米国のような強大な力を持つCEOに批判的な人が多いのだと思います。そして、現在は、ドッグイヤー、マウスイヤーの時代です。そうであれば、自ずと、意思決定に時間を要さない方法が適切ということができるでしょう。

2024/8/11 No.2797

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