『路上の言語』Skateboarding is not a Sport9

破壊と楽しみが結びつくことに関してはイリンクスで述べたような

突然人をとらえる忘我の激情がそれだ。この眩暈は、ふだんは抑制されている混乱と破壊の好みに容易に結びつく。それは、自己主張の粗野で乱暴な諸形態なのである。
引用:ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』P62-63

スケーターがスケートボードをする中で破壊に注目することはスパイク・ジョーンズだけでなく一般的にみられる傾向である。滑る際に結果的に破壊してしまうことから滑る楽しさと破壊が結びつくのだが、破壊をすることや見ることはほとんどすべてのスケーターが好意的な感覚を持っており、スケーター特有の感覚を現すもののひとつとして数えることができる。なぜかというと、スケートボードの映像では意図的にものを破壊するシーンを挿入させることが多いのだ。それはもはや序章のように扱われている。序章が本編を予感させるように、破壊のシーンはこれからスケーターが与えられた意味や概念を破壊していくことを予感させる前触れのような役割を持つのだ。その序章は規則に縛られた現実の世界の境界を破壊し遊びの世界に足を踏み入れる為の儀式ともいえる。

例えば工場の屋根や二階の窓からおもしろいというだけで落とされるテレビやパソコン、理由もなく叩き割られる廃屋の窓ガラス、爆竹を巻き付けられ爆破される人形。様々なものが破壊され、それらはスケーター自身がスケーターらしさを表現する手段として使われる。

ところで、スケートボードにはストリートともうひとつ、フリースタイルがある。フリースタイルからは破壊することをおもしろがる感覚は生まれないが、それは破壊して楽しんできた過去がないから破壊と接続する感覚がないのだ。ストリートを滑るスケーターは破壊行為にどこかスケートボードを感じるがこれは滑るなかでスケート・スポットを破壊してきてしまったことや概念を破壊してきたこと、決まりきった与えられた遊びを破壊し新しい遊びを創造してきた楽しみを身体で知っているから面白味を感じてしまうのだ。もちろん純粋に破壊行為をすることは許されるものではないしそれを求めてやるべきではない。せいぜい映像の序章などのためにコントロールした環境で行うぐらいにとどめておくべきだろう。

スケートボードは概念を破壊することでスケート・スポットを発見し発展してきたわけだが、滑る場は生活する都市と同一の場所である。カイヨワは

日常生活の散漫でいいかげんな法則と、遊びの観念的な規則とを分離する厳密な仕切りがもしぼやけてきた場合、遊びはいったいどうなるのか。
引用:ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』P89

と疑問を提示し、「仕切りがぼやけた場合」、遊びを維持することはできず遊びを求める強い衝動だけが残るといっているが、スケートボードは遊びの場と生活の場がそもそも同一なのである。

このように遊びの世界が生活と地続きになっている場合、

遊びの基本的な範疇のそれぞれに特有の腐敗が生ずることになる。~略~隔離され、保護され、いわば中和されていた遊びの活動によってなんとかなだめられていた性癖が、日常生活の中に現れ、拡がり、生活をなるたけ性癖のいうがままに従わせようとする。かつては楽しみにしていたことが、いまは固定観念〔妄執〕となる。逃避であったものが義務となる。気晴らしであったものが熱情となり、執念となり、不安のもととなる。
引用:ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』P91

このようになってしまうことは遊びの退廃が起こっているわけではなく、遊びの四つの衝動の過誤があり逸脱してしまうのだ。スケートボードの場合はイリンクス・眩暈であり、これが逸脱すると眩暈を求め過ぎ日常生活を送るために必要な秩序をないがしろにし遊びの堕落が始まる。

イリンクスとしての逸脱はアルコール中毒や麻薬中毒が例として挙げられているが、そこまで破滅的になる前に一般的な社会のレールから逸脱をしてしまう。イリンクスは秩序とは結びつかない遊びだ。イリンクスの起源は未開の文化、原始社会から生まれ、その社会では仮面が大きな力を持っていた。

仮面によって、神々に、精霊に、祖霊=動物に、またありとあらゆる恐るべき、だが稔り豊かな超自然の力によって変身させられる。
引用:ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』P147

仮面は被ることによって恐ろしい力を得て儀式を行い、社会を統治する。儀式では音を立て身体を揺らし回転し、集団でそのようなことをするため一種のトランス状態になる。「仮面を被ると力を持つことができる」という約束事・ミミクリがあり、それを信じたものがトランス状態を引き起こし眩暈・イリンクスを体感し社会が一体となる。

やがて未開の文化は呪術的なものから科学の文化に移行し、仮面の持つ力を信じる者はいなくなり眩暈のイリンクスだけが刺激や快楽という形の遊びとして残った。イリンクスの遊びにはこのような過去がある。

さて、遊びには概念的境界があると述べたが、

遊びは「限定づきの、かりそめの完成」であるばかりではない。それは一種の避難所でもあって、ここでは宿命を支配しうる。人は自分で危険を選ぶが、その危険もあらかじめ心づもりされたものであって、彼がまさにかけようと思っているものを越えることはありえない。
引用:ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』P299

楽しさを与えてくれる

遊びとは、人が自分の行為についての一切の懸念から解放された自由な活動である、と定義しうる。
引用:ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』P300

また、バンヴニストは

遊びを「脱社会化するはたらき」と定義している。
引用:ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』P301

遊びは生きにくさを感じるものたちだけでなくすべての人にとって現実世界からの避難所であり、「脱社会化するはたらき」をもつものであるという。スケートボードはイリンクスに該当するが、これは発生起源からして身体で感じた感覚を楽しむ遊びであり、理屈で固められた秩序と結びつくような遊びではなかった。スケートボードを発展させたサーファーも身体で楽しむサーフィンと似た「感覚」を感じたからスケートボードにのめり込んでいった。スケートボードというイリンクスの遊びの堕落が起こった場合、秩序から離れていき脱社会化する傾向を強めていくならば、スケーターがいい年齢になっても仕事もせずふらふらし、社会のレールから外れてモラトリアムに寄ってしまうこともわからないでもない。

このような逸脱はサーファーたちも同じ部分を持っているがスケーター特有の点があり、これがスケートボードの文化の一部を築き上げたのだ。特有の点とは、サーファーとスケーターが社会のレールから逸脱することを比べた場合、スケーターは建築物を使って滑り社会とダイレクトにつながっているため社会からの声を浴びやすい点である。また、前回述べたがスケートボードの文化ととそうでない異なる文化は建築物を媒介として交わる。社会の中で互いに異なる文化に所属するもの同士が建築物の使い方についてせめぎ合うとき、ふたつの文化は交わるのだ。

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