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Bariloche 森を彷徨う

こんにちは、いとさんです。

腹ごしらえが終わっても暫く湖の前で佇んでいました。えらい遠いとこまで来てしもたなぁと今更ながら深々と考え込んでみたかと思えば、ひたすら魂が抜けたかのように一点を見つめてぼーっとしたりして、気が済んだらとぼとぼ歩き始めました。

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ここから先は目指すところCascada los Cántaros(カンタロスの滝)のみです。ハイキングコース内の見所はいくつかあって、ルートを教えてくれる看板がありますが、結局は一本道なので滝を目指せばほぼ全てを通ることができます。ただひたすら歩く。さっきまで居た人達はどこへ消えてしまったのか。また同じ疑問が生まれて、そういえば滝と反対側に一つルートがあったなぁ。皆そっちへ行ってはんねんな。行かない選択をしたけれども、惜しいことをしたかなという考えがふわっとよぎりそして消えました。

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森の中は静かで穏やかです。何かを伝達しあっているのか、鳥達がリズム良く鳴いている他は自分の足音以外、何も聞こえません。何でもある世界からやってくると、何にもない世界の心許ないことはこの上なしですけれど、だんだんとそういう世界に身を置くことに慣れてきて、心の平穏が保たれているような気がしてきました。それでも時々都会を恋しく思うのは、群れで暮らす人間という生き物の習性上、仕方ないことなのでしょうか。

突然世界で一人ぼっちになってしまったような気持ちになりましたけれど、この世界から切り離された感覚は初めてではありません。言葉が分からない環境にいると常にその感覚に陥ります。あるアーティストが「言葉はただの音だから」と言いました。この方は日英どちらの言葉を話す人とも問題なくコミュニケーションが取れます。確かに元を辿れば口から発せられる様々な音であることに違いありませんが、私にとっては「ただの音」ではありません。言葉とはその音に意味を持たせて他者と繋がるものです。そして今その音を聞き取れない私には、全部が意味のないものに聞こえる一方で、聞き溢してしまった音は重要なものだったように感じるのです。きっとそのアーティストは人の口から発せられる音の意味を浴びるのにひどく疲れ果てていたのかもしれません。だから「ただの音」と表現したのだと思います。

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ついに滝は目前という時、最後の難関がありました。どこまでも続く階段、階段、階段。ここへ辿り着くまで森の中にほとんど人工物がなかったので、この階段を見た時、異物を見た様な妙な気持ちになりました。さて、上ろうかとする時、階段の裾の方から賑やかな声が聞こえてきました。この階段は私が到着した港とは別の港に続いており、帰りはそこへ船が迎えに来る予定になっています。恐らく別の観光客が到着したのでしょう。久しぶりに人の声を聞いて少し安心したのも束の間、人の波が押し寄せて来る前に滝を見ようと、急いで階段を上ることになりました。

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滝というには少し迫力が欠ける気がしましたけれど、ここへ辿り着く頃には、たくさんの階段のおかげで身体が火照り汗が流れていましたので、滝の音が涼しさを感じさせてくれて気持ちが良かったです。急いで上った甲斐があって、滝には一組のカップルしかいませんでした。彼女がモデルさながらにポーズを決めている様子を彼が写真に収めます。そして一通り写真を撮り終えたら去っていくのです。景色をのんびり眺めるわけでもなく、二人で訪れた思い出を残すでもない彼らの旅からは、私が置いてきた早送りの都会のリズムを感じました。

来た道を戻っていると、ご年配方がぜぇぜぇ言いながら階段を上って来るところに出会します。そして皆同じように「滝はどこ?」と尋ねます。「もう少しですよ。」「この階段の先にありますよ。」「まだもう少し上ですよ。」と、出会う場所によって滝までの距離を説明しながら下っていく帰り道は、急いで上った行き道よりも楽しかったです。

いとさん

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