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親が勝手に幸せであることが子を救うと気づいた件


13回忌とかもはや他人ごとみたい


昨年の9月には母の13回忌の法要を済ませました。
よく法要の場で
「もう〇年ですか…早いもんですね」
とか挨拶するイメージがありますが、ほんとそれ。

あれ、宇宙規模で時間軸がズレたのかな?と思うほどです。

でも、久しぶりに見た懐かし顔は、やっぱりみんな相応に更けていて、宇宙規模でも正しく時が刻まれていることを教えてくれます。

ついでに地面に向かって降下し続ける顔や身体のたるみは、重力というものが今日もはたらき続けていることを思い知らせてくれます。



5年前のアメブロにまた泣いた


以前、気が向くままにアメブロにいろいろ書いていたのですが、母のことを記した記事を見つけました。
2015年の夏にアップしたものらしいです。

我ながら、お気に入りの記事(忘れてたけど)
読んだらまた泣けてきたので、Noteにも残こしておこうと思います。

自分好きか。

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秋が来ると、母の七回忌。
早いもんです。

ちょい身体の調子が悪いからと病院へ行ったら、
「このまま入院してください、って言われたわぁ」
と事も無げに電話で話した母。

東京在住だった私がすぐに(京都へ)帰ると言うと、
「そんなんしなくて大丈夫、治るから」
と、制した母。

私が母の本当の強さを知った瞬間でした。
60歳、病名は急性白血病でした。

骨髄移植は私がしました。
肉親の中で、唯一適合していたから。

「子供とは血が繋がっているから、拒否反応がまだ少ないんやって」
と、嬉しそうだったのに。

結局はダメでした。
私は、母を救うことはできませんでした。


そんな母との関わりの中で、今でも忘れられないこと。

母が一年間お世話になっていた、京大付属病院の病室からは、五山の送り火がかなりキレイに見えます。

毎年、五山に火を灯している地元の友人が、母の入院を知って
「大事に火を灯すからね」
と、メールをくれました。

病室を暗くして、車椅子の母と二人で送り火を見ました。

「特等席でよく見える、入院しててラッキーやったなぁ」
と言葉を交わしながら、まっすぐに送り火を見ていました。

私は母の後ろに立ち、美しい灯に魅入られているかのように何も言わず、声を殺して泣きました。

母と見る最後の送り火であることを、どこかで気づいていたから。

そして、母も私が泣いていること、そしてその訳を知っていたと思います。

徐々に弱っていく母。
骨髄移植をしたのに、私の骨髄で助けられないことが悲しくて悔しくて、母に申し訳なかった。

友人の優しい言葉が有難くて、切ない夜でした。


そして、もう一つ。
送り火と同じ日だったか、翌日とかだったか。

ベットに身体を横たえ、窓の外を見ていた母が、ぽつりと言った一言。
「あと、3年は生きたいなぁ…」

3年という長くはない時間だからこそ、私は母の切実さを感じました。
心からの声だったと思います。

その声と、窓の外に向けられたまっすぐな視線を、忘れることができません。

それから少しして、母は旅立ちました。

「痛い思いをさせて、骨髄移植してもらったのにごめんね」
何度も私に詫びて、天に還っていきました。

移植から半年、本当に辛い闘病生活だったはずやのに、一言の泣き言も口にすることなく最後まで気丈な人でした。


母を亡くしたことは、この上ない悲しみではあるけれど、
闘病中の母を思い、一緒に泣いてくれた友人、
「挨拶だけでも」と、子供を連れて病院に駆け付けてくれた友人、
遠方から、電車やバスを乗り継ぎ、葬儀に来てくれた友人、
親子で揃って、見送りに来てくれた幼馴染たち。
当たり前の日常だと気づけない、人の温かさをたくさん感じました。

そんな母の命日が、また近づいてきています。
今年は、遠方から親族も来てくれて、少し盛大にやる予定。

自由でワガママで、マイペースな人でしたが、よく考えたら今の私そのものかも。

でも、気丈さは手に入れられてないかなぁ…

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くぅーーー…泣けるやないか。

読んでくれてありがとう。
あんたも泣いていいんやで。

自分好きか。


Going my wayは子を救う


私は母を救うことができず、悲しみもありました。

が、さほど重症ではなく、私はかなり早い段階で自分の生活を取り戻すことができました。
チープな言葉ですが
「これが母の人生だったのだな」
と概ね諦めることができたのです。

母は一年間ずっと京都大学附属病院にお世話になっていました。
長く別の病院で職員をしていた父が、
「京大付属病院でダメだったのだから、もうどこに行ってもダメだっただろう。今考えられる中で最高の医療をしてあげられたはず」
と言っていたことは大きな救いでした。

でもそれ以上に、私を勇気づけたのは他の誰でもない母の生き方でした。

「母は人生をまっとうしたのだろう」
と思えたことは、13回忌を経た今となっても、私の中で最大の救いであり、誇りでもあります。

母は、とにかく多動で、次から次へといろいろなことをやる人でした。

長く生命保険会社で営業の仕事をしていましたが、プライベートでもたくさんのコミュニティに属し、友人の多い人だったと思います。

特に私が社会人になってからは、その動きは多様化し、加速していきました。
その時点で母は50代前半でしたが、年齢なんてものは彼女に関係なかったのです。

60歳で病が発覚するまでの約10年間、私が知る限りでも2回は転職をしていますし、やや怪しいビジネスにも手を出していましたw
友人とつるんでは飲み歩き、旅行をして、「大人になりきならないオトナ」という感じでした。

親であることを言い訳にしない生き方


私が記憶している限り、母は私に対して、誰かや、何かや、置かれた状況を理由に、たとえ些細なことでも強制することは決してありませんでした。

例えば、
誰とどんな遊びをするのか。
どんな習いごとをするのか。
どこの学校に行くのか。
どんな風に振る舞うのか。
誰かに迷惑をかけないかぎり、私は常に自由でした。

私が選択したことを母が否定することもありませんでした。

子どもだから。
女の子だから。
京都だから。
近所が〇〇だから。
母親の私が★★だから。

そんなセリフは、母が生きていた私の人生31年間、一度も言われませんでした。
あ、父からも。

同時に、母自身も誰かや何かや置かれた状況を理由に、選択することを止めたり、自分の在り方を変えたりすることはなかったと思います。

どんなコミュニティに属するのか?
日々の食事をどうするのか?
家族の関係性はどうあるのか?
親としてどうあるのか?

これらの解は、いつも母自身の自己決定の中にありました。

あるとき、友人に話をして驚かれた家族のエピソードがあります。

例えば、もらったお菓子が4種類あったとします。
家族4人だったんですが、誰からお菓子を選ぶのか?

私が生まれ育った家庭では、必ず家族4人でじゃんけんをして決めていました。
そして親が勝利したときには、遠慮なく二人は自分が望むものを選んでいたように思います。

こんなことは私には何の変哲もない日常でしたが、この話を聴いた友人は
「え!家族でじゃんけんするの?お菓子で??」
と目を丸くしていました。

親も遠慮なく、という下りは実際のところは違うのかもしれません。
でも本当はどうだったかよりも、私や兄が「両親も私たちと同じように振舞い、自由で楽しそうだ」と思っていたことが重要なのです。

絶対的な愛情をもらっていたことは揺るぎない記憶としてありますが、私には、母の人生に彼女が望まないインパクトを与えた、という負い目はありません。

そうやって母は
「自分の人生を自分の意思で生きること」
つまり多くのHave toを解放し、Want toを大切にしたことで、子どもであった私の精神を自由にしました。

その恩恵というのか、効果は今も続いています。

繰り返しますが、実際にどうだったかよりも、子どもであった私や兄がそう思っていることが重要なのだと思います。


親が「身勝手に生きること」の真の意義


ボスのプログラムで、日々多くの方のHave toやWant toに触れていると、親の影響がいかに大きいかを感じます。
極端な話、アイデンティティにまつわるところの根幹では、必ず親の存在が表出し、親に関するお話がない人はいない、と言っても過言ではありません。
それくらい親の存在は偉大です。

そして、子どもという決して強くはない立場における真実も見えてきます。

親が子の幸せを願うように、子どもも親の幸せを心から願っているということ。
そのために子どもはたいへんな努力をし、自分を犠牲にすることさえいとわない、ということ。

だからこそ、改めて思うのです。

親という立場は「自分の人生を、自分の意思で生き切ること」がとても大事なのではないか、と。
親が自分の人生を勝手に生きて、勝手に幸せでいてくれることは、とっても子ども孝行なことだ、と。

私は親になったことがないので、親の立場からの景色は見えません。
でも少なくとも子どもとしての心象風景において、これは真実だと思っています。

そういう意味では、母は立派だったなぁと今日も思うのです。

61歳という、今の時代では決して長いとは言えない人生でしたが、母が自分の人生を勝手に生きて、勝手に幸せでいてくれたおかげで
「これが母の人生だったのだな」
と私は今日も心穏やかに、過ごすことができます。

手前味噌っていうのかわかりませんけど。
あ、身内贔屓か。

今日はそんな感じで。

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。





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