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勉強する意味


僕はいわゆる「ゆとり世代」で、あまり「勉強しなさい」という圧力は学校でも家庭でもテレビを見てても感じられなかった。

勉強する意味とか動機など特になかったが、「学校でみんな必死にやってる勉強ってどんなもんなんだろう」って軽い気持ちで始めてみたら、そこそこハマって勉強するようになった。勉強することに意味とかモチベーションなどは必要なかった。

 2002年から実施された学習指導要領による教育システム、「ゆとり」教育と呼ばれることになるそれは、実はもともと社会が要請したものだった。世界の中の日本の立ち位置の変化が、それを必要としたのだ。いまや生活や経済のすべての部面を貫く「グローバリズム」なるものは働き方も企業の収益の構造も変え、一部の人や業界にはチャンスをもたらしている一方、大方の人々を苦しめ、文化や習慣まで変わってしまおうとしている。
 ここまでの激変を予想する人は多くなかったかもしれない。しかし、起こることの本質はわかる人にはあらかじめわかっていた。グローバル経済の下では人間の、我々の身近で言えば日本で働く人の「価値」、言葉を換えれば、「国際価格」が下がるだろうということだ。日本の教育行政は比較的早い時点で、その事態に対応しようとはしていた。「ゆとり」教育は当時の産業界・実業界からの要請への回答でもあったのだ。「偏差値教育」で競争させて作り上げた頭の固い「テスト秀才」ばかりでは、より複雑に展開していく世界的な状況変化に耐えられない。これからは発想の柔軟な人材が必要だ、だからこそ応用力であり、行くべき道そのものを創り出す力であり、それらが育つ土壌として、まず詰め込み一方の教育を見直して、子どもたちに自ら考えるための「ゆとり」を与えてみようというのが最初の発想だった。その根本には、子どもたちの「学ぼうとする力、意欲」への信頼がある。教育においては「信頼」こそ鍵なのだ。これは現在の「新しい学力」の観点から見てもさほど変わりはない。「ゆとり教育」の考えに、「役に立つ勉強をしなさい」というニュアンスを加えた者にすぎない。

いずれにしても子どもの主体的な姿勢が求められる。

しかし、子どもたちにおいて学校・勉強への不信感は根強いものがある。


 学校について疑問を感じたことはありませんか。たとえば、「どうしてこんなことまで勉強するんだろうか」とか」学校の規則はなぜこんなに細く禁止するのだろうか」とか「こんな勉強役に立つのだろうか」とか「毎日毎日学校に行かなければならないのはなぜか」とか。あるいは悩みや不満というほどまでではなくとも学校での「ひっかかる」ことはありませんか。きっとそれなりの疑問は感じただろうし理不尽だと思うことはあったと思います。自分も正直、心の中は不満や疑問でいっぱいでした。

これらの疑問は未だに残りますし、二度と自分は小中学校時代に戻りたいなんて思いません。では「なぜそんな人が教師に?」と思われることでしょう。

「疑問は真理へのはじめの一歩」
学校では数学の方程式の解き方、理科の元素記号、歴史の年表、国語の古典、そして英語・・・各教科各単元にとても多くのことを勉強します。しかし、大人になってこれらを活用し、自身の仕事に生かしている人はどれだけいるでしょうか?周りを見渡してみてもそんな学校の勉強が必要なものだとは思いませんし、実感することもないでしょう。学校の規則はどうでしょうか?服装、髪型、髪の色、スカートの丈の長さ、化粧、中にはソックスの色や爪の長さまで校則があるかもしれません。なぜ授業で居眠りをしてはいけないのだろう、ノートに落書きをしてはいけないのだろう、誰にも迷惑はかけていないのに何が悪いのか。こういうことをいくら考えたってなんの解決にもなりません。それなりにしておけばいずれ済んでしまうことです。現在立派に見える大人たちでも昔は同じようなことを疑問に思い、時には反抗したり、規則違反をしてみたりしてきただろうと思いますが、今ではそんなことは忘れてしまっています。こんな疑問は時間が解決してくれます。そして、親になった途端、学校では勉強しなさい、校則は守りなさいと教えるわけです。その真意はわからないままに・・・・。果たしてこれでいいのでしょうか。かつての疑問を抱えたいたことを今では当たり前のように押し付ける。かつての子供が親になり、この疑問の連鎖は止まりません。しかし、こういう疑問を掘り下げていくと、普段何気なくやってることをいつもと違った角度から眺めることができます。つまり、疑問に感じることは哲学の始まりです。この疑問の「真理」を目指して哲学しましょう。

「どうして勉強しなければならないのか」
この疑問は誰もが抱えた問題であるといっても過言ではありません。どんな勉強が大好きな子どもでも、たとえば「理科は大好きだけど、国語はやだな」とか「英語なんて使わないよ、日本人だもん」とか「さすがに数学は大事だけど、古文は読めなくていいでしょ」などとすべての勉強に対し、すべて意味があるとは到底思えなかったことでしょう。
 ちなみに私はこれまで高校教師としてこの類の質問を何度か受けました。「なんで勉強するの?」という素朴な質問に対しては、「勉強するとまずその知識は自分のものになる。仮にその知識は必要のないことでも、何かを記憶したり思考したりする力は身につくし、その力がいわゆる頭の良さであり、頭はいい方がいいに決まってる。」と答えていた。「古文を勉強する意味あるの?」とか「漢文ってなんの役に立つの?」など私は国語教師なのでこういう質問も受けた、これに対してはなぜか腹が立ったので「そんなこといったら僕ら人間がいる意味ってなんだ?君はなんの役に立つんだ?」と冗談っぽく悪意の伝わらないように、皮肉を込めて言い返していた。教室は軽い笑いに包まれ、この話題は自然消滅するのがお決まりだ。
こんな答えが正しいとは到底思えないが、みんなそれなりにこの疑問を受け入れて学校生活を送るのだ。話を元に戻すと、「なぜ勉強するのか。」この問いに対し、予想される答えは大きく3つあるだろう。

一つ目は「受験に必要だから」「いい成績をとらないと将来いい大学に入れないから」「内申点が低いと就職活動で困るから」「勉強しておけば、その先役に立つこともあるかもしれないし、将来の可能性が広がるから」といった学歴社会、終身雇用を社会を前提としたステレオタイプの幸福のために勉強するのだという答えが中心となるでしょう。

二つ目は「勉強すると人間的に成長できるから」とか「勉強によって鍛えられる力が大切だ」といった資質・能力向上としての「勉強」を評価するタイプの答え。

三つ目はもっと乱暴に「学校は勉強する場所だから勉強するのだ」という現実直視な答え。一つ目の回答は、一番納得できる、、、というか確かにそうであるといった妥協案といった感じの答えだ。これは端的にいうと古い考え方である。

どれも誰もが心から納得できるような回答ではありません。

勉強した者にしか勉強の良さなど分からない。

専門的な回答を用意することはできるが、それはここでは避ける。

代わりに古いものではあるが引用する。

(村松喬『教育の森1  進学のあらし』毎日新聞社 1965年 p116)
「英語の選択の授業を受けたいといったけど、先生は受けさせてくれない。選択の英語を受けるのは高校に行く人だけだという。廊下でもいいから聞かせてくれと頼んだが、だめだた。くやしくて、くやしくて、生まれ変わって私も高校に行くようになりたいと思った。生まれ変われなかったら、私の子供にだけはこんな思いはさせたくないと思った」

個人的にはこういう感情に訴える回答の方が納得感はある。

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