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古典で読み解くフットボールの世界【孫武『孫子の兵法』編】ー 初心回帰?スペシャル・ワンの捲土重来(前編) ー


孫武

【原文】
夫れ、戦えば勝ち攻むれば取るも、其の功を修めざる者は凶なり。命けて費留という。故に曰く、明主は之を慮り、良将は之を修むと。利に非ざれば動かず、得るに非ざれば用いず、危うきに非ざれば戦わず。

【訳】
戦に勝利して物資を奪い、狙った地域を占領したとしても、その戦果に満足出来ずに徒に戦い続けるのは不吉な兆候である。名付ければ、『費留(人命と財産を浪費しながら止まる。骨折り損)』と言えるだろう。だから、聡明な君主は戦争計画を熟慮して開戦を決意し、優秀な将軍は計画に基づき無駄のない作戦実行を行うものだと言うのだ。利益の無い戦争は起こしてはならない。勝算がなければ兵を動かしてはならない。危急存亡のやむを得ない状況でなければ戦争を仕掛けてはならない。

ナポレオン・ボナパルト

19世紀初頭、ヨーロッパで覇権を握り我が世の春を謳歌していたフランスの英雄ナポレオン・ボナパルト。
そんなナポレオンが没落したのは、周辺国を力づくで支配しようとして、ロシアで壊滅的な敗北をするまで戦争を続けてしまった事でしょう。
 いわゆる孫武の言うところの費留を続けてしまった結果、ナポレオンは四方八方に敵を作り、ヨーロッパ全土に憎悪の炎を広げて、多くの犠牲を生み出した挙げ句、その大きな代償を払う羽目になったのです(敗戦後、セントヘレナ島に幽閉され、惨めな最期を遂げる)。
費留を止めないと、ナポレオン程の軍事的天才でも破滅への道を歩んでいくだけだと言う事を、孫武も戒めています。

フットボール界でも、ナポレオンの様に彗星の如く現れて、瞬く間にヨーロッパ大陸を席巻したものの、自らの頑固さや慢心も災いして、費留を続けてしまい転落の一途を辿ってしまった人物がいます。

言わずと知れたポルトガル出身の名将、

ジョゼ・モウリーニョです。

自らを“スペシャル・ワン”と称し、かつてはあらゆるタイトルを総なめしてきた希代の名将ですが、近年はチームマネジメントの失敗による解任が立て続いており、苦難の時を過ごしてました。
過去の成功体験にとらわれ過ぎて、率いたチームで数々のトラブルを起こし続けたおかげで、気がつけばビッグクラブから見向きもされない斜陽の存在になっていました。

今回は、そんなスペシャル・ワンのお話です。


ナポレオンが世界史に登場してから、約200年の月日が経った21世紀初頭の2002年1月、モウリーニョはFCポルトの監督に就任しました。
ポルトを率いていた2年半の間に、UEFA杯(現EL)とCLを優勝。

FCポルトをCL優勝に導いたモウリーニョ

決して優勝候補の列強クラブとは言えないポルトで、痛快な下剋上を果たして一躍“時の人”となったジョゼ・モウリーニョ。

2004年にポルトを退任してチェルシーの監督となってからは、インテル・ミラノ、レアル・マドリー、マンチェスター・ユナイテッド、トッテナム・ホットスパーなどの豊富な資金力を有するビッグクラブを歴任し、数多くのトロフィーを掲げてきました。

優勝請負人ジョゼ・モウリーニョ

しかし彼の気難しくて好戦的な性格が災いし、ラストシーズンを三冠達成で締め括ったインテル以外では、いつもバッドエンドを迎えてました。

消極的すぎる程のカウンター中心の守備重視戦術や、選手の奮起を促す目的でよく行う辛辣で高圧的な言動が、選手達やファンそしてメディアの間でも大きな不評を買い、モウリーニョは多方面に揉め事の種をばら撒いていました。

補強方針を巡って上司の会長とも戦い、低調なプレイをした者を公開説教して部下の選手たちとも戦い、耳障りな批判を浴びせてくるメディアとも戦い、自軍に不利な判定ばかりだと文句を言って審判団とも戦い、試合中に怪我をした選手を手当てした事を、自軍を不利に陥れてたと非難してチームドクターとも戦い、費留とも言える無益な場外乱闘を続けるモウリーニョ。

エル・クラシコでは、バルサのコーチだった故ティト・ビラノバの目を突くという、信じ難い愚行まで犯した事もありました。

チーム内の雰囲気をこれ以上無いくらいまで最悪の状態にして、監督に就任してから2~3年目のシーズンにお決まりの途中解任。

この負のサイクルを繰り返した末に、モウリーニョの元にビッグクラブからのオファーは、遂に届かなくなりました。

さながら、ナポレオンの末路の様に。

この頃には、モウリーニョは『時代遅れ』『過去の遺物』『トラブルメイカー』『パワハラ上司』などのレッテルを貼られ、もう終わったと囁かれました。

筆者の私も然りでしたが。


そんなモウリーニョの元に、監督就任のオファーが届きました。
“永遠の都”ローマから。

ー続くー

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