見出し画像

モラトリアム温泉

「ごはんですよ」

 彼方から急かすような声がするが、僕はまだ動きたくはなかった。このまま不死身になるまでここにいたい。ずっとこのままでいい。世界はどうして先へ先へ向かおうとするのか、僕にはそれがずっと腑に落ちないでいた。誰かが再生ボタンを押しっ放しにしたに違いない。幸福は果たして追いかけるものだろうか。ただ知ればいいと思うのに。ここに完成された船がもうあるではないか。

「春ですよ」
 旅立ちですよ。

 広告の裏が好きだった。境界がない。方向がない。キリンを描いていい。普通と違ってもいい。似ていなくてもいい。キリンでなくてもいい。途中で消えてもいい。変わってもいい。許されている。辻褄が合わなくていい。好きなだけあっていい。無でもいい。法則に逆らってもいい。自然界に存在しなくてもいい。アンバランスでいい。宙に浮いていていい。つないでもいい。バラバラでいい。「これ何?」わからなくていい。そこにいていい。緩く許されている。生まれていい。ありのままでいい。わがままでいい。どこにも出ることのない僕らの宝物だった。どう考えてもそれは一度切りなのだから。科学的に証明できない宝物。

「お父さん怒ってますよ」

 父の怒りは元から父の中にあったものだ。原因が僕の中にあるというのは虚しい誤解だろう。自分の望むように世界が進まないからといって、他人に当たるというのは不条理ではないか。人間はどこまでも謙虚であるべきだ。どんな小さなものであっても自分の意のままにコントロールしようとしてはならない。どんなに偉い人でも一人の人間は宇宙から見ればほんの切れ端にすぎないのだから。思い出せないほどの昔から、僕は長々と湯船の中に浸かっている。湯は素晴らしい。温かく寛容で、未知なる幻想を広く受け入れる。誰だって追い出されるべきではない。すべて燃え尽きるまで許されるべきだ。

「私を笑わせてよ」
「そのつもりはないね」
「石1つ笑わせることができないで、世界の誰を笑わせることができると思うの?」
「僕がそうしたい時に力を出すだけだ」
「突然ヒーローになれると思うんだ」
「ヒーローなんて考えてもないね」
「小さな縁を無駄にするのね」
「別に急ぐ理由もないよ」
「私は隣の山に帰らなくちゃ。何も笑えないまま……」
「相手を間違えただけさ」
「さよなら、寂しい人」

「ねえ、あんた。いつまで浸かってるの?」
 ふやけてしまうわよ。

 終着駅が嫌いだった。ずっとその手前にいたいのだ。小刻みな振動に埋もれながら、理由を問わずそこにいることを許されている。次は、次は、次は……。いつまで経っても次のある世界が美しく思われた。車窓に映る風景は、決して触れ合うことのない人々。いつか語り継がれる物語。遙か彼方に存在する惑星。流れ込んだ光線がシートに描く木々の間に浮き沈む猫の気まぐれ。いい子、いい子、みんなこのままでいい。次は……。
 終点は流れる景色を無情に止めてしまう。歌も、夢も、空想も奪われて、開いた扉からすべての者を放り出そうとする。もう、次はなくなってしまったか……。留まることは許されず、現実に踏み出せない者は、真っ暗な倉の中に閉じ込められてしまうのだ。何も急ぐ必要などなかったのに、終点は加速をつけて僕を裏切るだろう。車掌さん行き急がないで。まだ夢の続きが残ってる。

「誰に似たのかね」
 誰にも似てないさ。
 僕はずっと独りだったんだから。

「もうみんな行きましたよ」
(私も行くよ)



#ごはんですよ #春 #温泉 #終着駅

#詩 #小説 #モラトリアム

#他山の石


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?