見出し画像

遅刻電話

「……他にも種類があってな、」
 また今度話そうと父は言った。僕が忙しいことを察してくれたのだ。2階に上がり、リュックの中にジュース、本、お菓子などを詰め込んだ。間に合うだろうか。電車のアプリが混線してダイヤが見られない。
「時刻表は?」
 壁にいつも貼ってあったはずのものがなくなっていた。
「もう外すことにしたの」
 母がばつが悪そうに言った。
 家の中ではだんだんと省かれるものが多くなった気がする。そうしていつかみんななくなってしまうのだろう。
 アプリが復活した。発車時刻を見るともう切羽詰まっていた。

「送っていくぞ」
 父が行った。
「捕まるよ」
「そうだな。捕まるな」
 父はすぐに納得した。
「無理だ。あきらめるか」
 駄目なことは潔くあきらめるのが、我が家の伝統だ。
「自転車は?」
 あきらめたあとにまだ最後の手段が残っていると気づいた。飛ばせば間に合うかも……。雨の中の坂道を飛ばすことは恐ろしくもあった。自転車は車庫の奥で埃を被っていた。僕は帽子も被らず家を出た。
 そこより僕の記憶は飛んでいる。

 僕は橋を越えたところにいた。走っていた。自転車に乗った母が帰っていくのが見えた気がしたが、人違いかもしれない。全力で走って駅に着いた。大勢の人がホームから階段を渡りあふれ出てきた。それからすぐにチェーンが引かれ、シャッターが下りた。全力を尽くしたが、やっぱり駄目だった。言い訳になるが、連絡する他はない。

「ああ、どうしました?」
「うっかりして寝坊してしまいました」
「そうじゃないかと思ったんだよ」
 嫌な予感があったと店長は言った。色々頑張ってはみたけれど、こうなることが最初から決まっていたのかと思うと、すべて虚しかった。
「どうしましょうか。誰か替わってもらえますか。誰かいます?」
「おるよ。木曜日は……」
 紙がめくられる音。歌が流れている。アコーディオンのような音色が聞こえる。
「何か賑やかだな」
 店長が言った。

「えっ? この歌、こっちですか?」
 テレビか何かだと思っていた。歌はこちらの世界の空気の中にあった。

「今、駅前なんです(走ってみたんです。何かな。祭りかな)」
 神社の通りを密になって歩いて行く人々。僕はなぜか家とは反対の方に向かっていた。人波に流されるように東の方に。髪を緑に染めた若者が猫のように壁に上っていた。膝から下を揺らして缶ビールを飲んでいた。

「打てよ 茹でろよ 美味しいぞ♪」
 うどんを称える歌のようだった。
 どこか知らない町に来たようだった。
 0時になろうとしているのに、夜は明るくあふれんばかりの人がいる。スマホを耳に当てたまま、僕は引き返した。すぐにまた別の人波に呑み込まれる。どこまで行っても歌は終わらない。

「じゃあ、すみませんけど」
 電話がまだつながっているのか、わからなかった。
「うん」
 という返事が聞こえたような気もした。
 僕はスマホをポケットの中に入れた。
 眠らない夜と歌の中を、口先を尖らせながら歩いた。



#言い訳 #自転車 #祭り #裏切りの街

#終わらない歌 #駅前

#夢

#小説

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?