【コラム・エッセイ】自転車泥棒
自転車は人よりも速く進むことができる優れた乗り物である。徒歩30分かかるところに出かけて行く場合、歩いて行くと30分かかるのが自転車に乗って行けばほんの数分の内に目的地に到着することができる。まさに驚異的なスピードと言える。勿論、自動車と比較するとスピードは劣るが、短い距離では引けを取らない。(スピードという点では馬やヒョウには勝てない)
また、小回りが利くという点も見逃せない自転車の長所だろう。自動車は常にある程度の料金を払った上で駐車スペースを確保しなければならないが、自転車はほんのハンカチ一枚ほどのスペースがあれば、その場に停めておくことができる。しかし、その気軽さは危険と隣り合わせであることを忘れてはならない。
自転車の敵、それは言うまでもなく自転車泥棒ではなかろうか。人は誰しも自分より優れたものに憧れを抱くものである。また、自分にないものを求める性質がある。もしも、自分にない自転車が無防備な状態で放置されていたとしたら。誘惑に負けてしまう人間が現れたとしても不思議ではない。
最近はあまり自転車に乗ったことがない。前に持っていた自転車は人からもらった物だった。毎日のように乗るということはなく、たまに思い出した時に乗る程度だった。そんなにいい物でもないし貰い物だしということで、鍵もかけずにいつも玄関の前に置いていた。なくなったらなくなったでいい、それくらいのいい加減な気持ちだったが、数ヶ月は何事もなかったように思う。しかし、ある日、自転車は突然姿を消したのだった。他ならぬ自転車泥棒だ。「泥棒だ!」僕はそう叫ぶこともなかった。もはや後の祭りだった。それ以来、僕は自転車を所有していない。生活に特に困ったところはないようだ。
自転車は自動車などの四輪車とは違い二輪車である。二輪車というものは、四輪車と比較するとバランスが悪い。上手く走らせるためには、バランス感覚が必要になる。(一輪車となると更に難易度は上がる)最初にその技術を習得するまではそれなりの訓練が必要で、ごく初期の段階では自転車の後部に補助輪をつけることもあるくらいだ。また、動いていることによってバランスが保てているという特徴があり、止まった瞬間には自転車単体では自立できず、人間なりスタンドなりの支えを必要とする。そうした点を忘れてしまえば、自転車は路上で易々とひっくり返ってしまうことだろう。
風の強い日などには、自転車が道端に横転している風景を目にすることがある。恐らくはあまりに強い風にバランスを保てなくなったのであろう。そのような時には無理に起こしたりせず、じっと風が過ぎ去るのを待つ。人類が長年に渡る自転車との共存の中で培ってきた静観と言えるだろう。
子供の頃はベッドで寝ている時代が長かった。長いというのは子供時間の話で、大人時間で考えるとそこまでは長くなかったのではという気もする。でも、やっぱり長かったという思いもある。苦しかったから長かったのか、子供だったから長かったのか、時間の感覚というものは複雑に事情が絡むものだ。重要な時間というものはよいもわるいも記憶に定着している。断片的な風景が夢の中やふとした瞬間によみがえってくる。中には誇張されたり歪められたりしたものもあるのだろう。
当時の病院の枕はとても硬かった。そのせいで僕の頭は多少フラットになったかもしれない。初めて歩けるようになった時の不安と喜びは、今の自分の中にどれくらい残っているのだろう。自転車もいいけれど、僕は独りで歩いて行くことがとても好きだ。ハンドルを持たない気楽さ。(乗ったり降りたり停めたりしなくていい)身1つでいることの気軽さ。少しは脇見してもいいし、空を見上げたりするのもいい。
乗って進むばかりが自転車ではない。街では自転車を押しながら歩く人の姿を見ることもできる。当然、速度は落ちてしまうが、自転車ライフには様々な形がある。乗らずに行くという選択もあるのだ。そうしたシチュエーションに最も多く出てくるのがつれ(友人・仲間)の存在ではないだろうか。一人が自転車で一人が歩きという状況を考えてみてほしい。もしも互いに何も考えずに進んだ場合、両者の距離はあっという間に開いてしまうだろう。(それではさよならだ)同じ時を仲間と一緒に進もうとした場合、どちらかが相手のペースに合わせることが必要だ。歩きを走りに変えれば、ある程度は自転車に迫って行くことはできるかもしれない。しかし、その光景は見方によっては自転車泥棒を追いかけているように映りはしないか。間違って警察に通報されるとう事態にもなりかねない。自転車がのろのろ運転、歩きが少し早歩きという風に、少しペースを調整することによって仲間と共に進むことは可能なようだが、これには自転車側に高度な走行技術が必要になる。(決して誰にでもできることではない)前述した通り、自転車は速度がゼロに近づくほどバランスが保ちにくくなるのである。好んでそうした難しいことに挑戦するまでもない。自転車を降り、仲間と同じ地面に立って自転車を押しながら歩くことは、誰にとっても望ましい選択であるように思われるのである。
初めて自転車に乗れるようになるまでには、何度も失敗を重ねたように思う。勿論はっきりと記憶しているわけではないが、不安や恐怖の一部がまだどこかに残っている気がする。(恐れは生きていくためには必要なものだ)そんなはずは決してないのだが、子供の頃の出来事は前世であるように思える時がある。失敗を繰り返しながらもコツをつかみ、ある瞬間「乗れる!」(できる!)とわかった感覚を、今でも見つけることはできるのではないか。そんなことを時々考えている。何か上手くは言えないけれど、そうした何かを見つけたくて、自分は生きているのかもしれない。
自動運転技術の発展によって、近い将来には無人運転自転車が道を走り出すことだろう。有人自転車と無人自転車が路上に共存する世界は、もうそこまで来ている。それと平行して空飛ぶ自転車も登場する。果たして車輪の役目とは何だろうか。自転車が猫よりも空に近づく頃、そのデザインはすっかり様変わりしているのかもしれない。更にその先の世界では、自転車という言葉自体が別のものに入れ替わっているのかもしれない。(今はガラケーは少なくスマホが主流になっている。その先は何だろう)個人の時間には限りがあるが、それとは関係なく未来のことを空想するのはわくわくするものである。
「自転車? そういうものがあったのですね……」
未来人の話の中で、自転車は恐竜のように顔を出すのだろう。
お腹を空かせて待つ君へ
くるまよりも小回りが利く
自転車に乗って届けたい
雨の日も
心折れる日も
腹が減って動けない日も
僕はどんな日だって休めない
後ろにとっておきの荷をつけて
君が待ちわびる場所まで
風を切って突き進む
もうすぐなんだ
もうそこまで 近づいてる
僕の自転車 盗まないでね
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