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【曖昧コラム】恋する時間/これしかない詰将棋

とけなくてもわくわくする時間

「どうやっても無理そうにみえる」
 わからない。わからない。
 どれだけ頭をひねってもわからない。
 とっかかりのない難解な問題に向き合っていると、無力感に包囲されて耐え切れなくなることがある。
「これが詰むんだよな」
 しばらくして無力感の中に羨望のような感覚が入り交じってくることがある。今の自分には関係なく、そこに人間の作った問題と答えがあることを遠巻きに眺めてみれば、力みが消えて純粋な心持ちになれるかもしれない。

「何か1つみえさえすれば……」
 完全な行き止まりのように思えても、何か1つをつかむことでそこから解答は広がって行く。一瞬の閃き、未知の光景に、一目会ってみたい。微かな希望を胸に、問題を見つめている。それは苦しくも素敵な時間のように思われる。
 何かが育まれる時間というのは、だいたいいつも停滞してみえるものであろう。


~「これしかない」王手を突き進む

「これしかない」
 それは最小の読みを含んだ経験的感覚/消去法と言うことができる。「これしかない」が本当にこれしかない場合、「これしかない王手の連続」は必ず詰み/正解に結びつく。
「これしかない」をつかむ瞬間、他の全部をまとめて捨てている。本筋だけを選べた場合、無駄な読みをすべて省くことができるのだ。これは大変効率がいい。(将棋で困るのは、比較と迷いではないだろうか)


ゴールなんてみなくてもいい

「詰むとしたらこれしかない」という推論が正しい場合、詰将棋は必ず正解(詰み)へと行き着く。
 この手順/方法のよいところは、詰み形が「完全に」描けていない場合でも、「だいたい」で進めて感覚さえ正しければむしろ速く解けてしまうことだ。
 ゴールの場所がわかっていなくても、ゴールがあることが信じられるなら、目前の一歩だけにかけてみるのも有力な一手と言える。

「一歩一歩が正しい歩みなら最終的に正しくゴールにたどり着く」

 以前のコラムで「闇雲に王手をかけるな」「手を読むことよりも詰み形を描くことの方が大事」みたいなことを書いた。
 それはそれで正しいとは思いつつ、あるいは間違っているかもしれないとも思う。実際に、読み切れない場合だって多いからである。
 例えば、難解な実戦の終盤戦で読み切れない時もあるだろう。秒読みに追われながら、もう王手しかない、詰ます以外に勝ち筋がないという時もあるだろう。それはある意味、「詰将棋」と同じである。それ以外に道がないなら、詰むと信じる他はなく、ゴールを信じて「これしかない王手」をかけ続けるしかないのだ。
 例えば詰将棋が秒読みの中で行われていたら……。

 人生には、確信がなくても何か指さなければならない時が訪れるものだ。見切り発車だろうと何だろうと躊躇ってはいられない。
 見通しが立たなければ、未来を願い、自分を信じるしかないのではないか。信念を持って一歩一歩を積み重ねて行けば、運がよければ正しいゴールへたどり着くこともあるだろう。



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