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グッバイ・ノート/ハロー・ノート

 何も書くことができないという時に僕がすることは、ノートを閉じること。ノートを閉じてベッドに横たわれば、暗闇の向こうに夢の扉が見える。
「おいでよ。もういいから。何もしなくていいからね」そうだ。何もすることはないんだ。何かを創り出そうだなんて、最初から無謀な試みだったのだ。するべきことは眠ること。あとはあちらに任せるだけ。飛ぶこともある。追われることもある。けれども、最終的な着地点は、約束されている。戻れる場所があることは、なんて幸福なのだろう。

 何も書くことがないのなら、私はただペンを置くまでのこと。昨日開いたノートの中に並んでいた、恨み、後悔、執着、憂鬱、停滞、退屈。それは私を何も解放することなく、ただ埃だけが降り積もる部屋の隅に私を縛り付けただけでした。私はノートを閉じて街へ出ることにしました。停滞からの脱出です。

 私が足を動かすだけで街の景色が流れていきます。いつか見たゲームの中の世界に似て、むしろそれ以上にリアルな広がりを持ちながら。人が行く、人が出てくる、人が待つ、人が届ける、人が水を撒く。人だけじゃない。犬もいます。人と犬が一緒になって街を歩いています。街には匂いがあり、ガソリンだったり、魚だったり、夏だったりします。ノートの中にある停滞がうそのように、歩けば歩くだけ前へ進むことができました。前進できぬ道はないようです。

 俺は一切の躊躇いを置いて、ノートを閉じた。躊躇う者は滅びる。俺は生き残りをかけて、グラスを傾ける。ノートは白く無慈悲だったが、グラスは純粋に澄んでいるからだ。テーマを失ったノートは、海をなくした惑星だ。モチーフを使い果たした俺に未練はない。元々それは俺の世界ではなかった。言葉は常に棘を持っているから、美しさを求めれば傷つくばかりだ。自分の言葉に酔うくらいなら、ワインに酔っている方がましだ。

 さあ、お前もどうだい。まるで馬の瞳のように澄んでいるだろう。世界が元に戻らないと言うのなら、今夜グラスを傾けよう。乾杯! 俺は夢の中に落ちていく。酷くぼやけているが俺は翼もなく飛行を身につけている。夢の中だというのに体が重い。スキルは主に逃亡のために使われるが、夢のように無敵ではない。どこまで行っても追われている。現実世界の拡張にすぎなかったのか。誰かが書いた物語の一部かもしれないと俺は思う。

 ノートはぽつんとそこにあって閉じられるのを待っていた。
「もうそれはいつか誰かが書いたことさ」
 そうだ。それは使い古された懐中時計だった。冬の牢獄で開いたアルバムだった。そうだ。4年前に僕が書いたこと。少し時が流れれば、僕は自分のことも忘れてしまう。僕、僕、僕、僕、僕、僕……。
 あいつはみんな僕であって、僕はみんな他人の分身だ。
 1行を置いて何が変わる?
 1行をつなぎどこへ行ける?
 僕はノートを閉じて、布団を被った。
 僕が選ぶのは夢のある方だから。

 無筋に満ちたノートを閉じて駒袋を開く。
 わしはビシッと王将を打ちつける。それから大好きな飛車を、側近の金を、くせ者の桂馬を、はじまりの歩を、大橋流でも何流でもない順序で初形を作る。ついでに向こう側の玉も置いて、適当にすべての駒を並び終える。余り歩の2枚を駒袋にしまって、駒箱の中に戻す。目の前にははっきりとした目標が見える。

 棒銀一直線。相掛かりでも、振り飛車でも、わしの戦術にぶれはない。乱戦となり、最初に出た銀が立ち往生することがあっても、何度でもわしは読み直そう。棋譜が踊っても、停滞しても、テーマが変わることはない。
 挑戦者はまだ現れない。
 わしが恐れることはただ1つ。戦いが始まらないことだ。

 1行だって書けはしない。
 私はノートを閉じて幾度も街に出ました。
 メトロノームが振れている硝子の街を雨となって歩きます。

 夢は広く暖かく深い。裏切りさえも包み込んで、僕を緩やかに許し始める。現実の隅に置いたはずのペンが、クロワッサンにもたれかかって滲んでいた。
「泣いているの?」
 選ばれなかっただけで、それは捨てられたこととは違う、とペンは言った。どこからか吹きつける風にひっくり返って、かぼちゃのお化けを真似たのはビニール傘だった。ベルが鳴る。新しい創作パンがやってくる。だから、もうここに居場所はない。
「一緒に行こう」
「僕には飛行があるから」
「強がらないで。人の目線で行かないと共感なんて得られないよ」
 勝手な言い草だ。
 僕はペンのあとをついて街を歩いた。
 道が無意味に汚れていくが、誰も迷惑だなんて思わない。
 書くということは、ただ道を進むことだ。
 歓迎する村人はいない。詩情のラスボスはいない。
 不在、停滞、虚無。
 行く手を阻もうとする敵は手強い。
(恐れを恐れるな)
 夢の教えはいつだって不条理だ。

 僕は眠りから覚めた。
 ノートも一緒に目覚めたようだった。
「まっしろになったよ」
 窓からさし込む光を受けて、ノートはただ白く輝いていた。



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