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4.風通しの良い町/ロバート・ハリス、家を建てる。

 自粛生活が始まってからはよく妻と娘と近所を散歩するようになったと前述したが、散歩しながらよく思ったことがある。それは、今と比べると昔の町はもっとずっと外に向いて開いていて、風通しが良かったな、ということである。

 ぼくは今いる横浜の高台の住宅地で生まれ育った。20代半ばから18年ほど海外にいたが、帰国してからもずっとこの高台で暮らしている。だからこのエリアのことはよく知っているつもりだ。

 ぼくが小さい頃、家の前の道路はまだ舗装されていない土の道で、近所の悪ガキたち(中には女の子もいた)がチャンバラごっこをしたり、追いかけっこをしたりして、暴れ回っていた。もちろん、ぼくもそんな悪ガキのひとりだった。

 近所の家々の多くは庭のある平屋建ての日本家屋で、庭は低い垣根に囲まれていて、おじさんやおばさん、お婆さんやお爺さんたちが庭いじりをしたり、縁側に座ってお茶を飲んだり日向ぼっこをしたりしていた。ぼくたちが羽目を外したり、喧嘩をしたりすると、何処からともなく「おい!うるさいぞ!」とか「おい!ケンカなんかするな!」といった声が飛んできた。

家から坂をちょっと下ったところには父方の祖母が住んでいて、お婆ちゃん子だったぼくはしょっちゅうそこへ泊まりにいっていた。彼女の家も平屋建ての小さな日本家屋で、竹藪に囲まれた庭があり、大きな柿の木があった。中は居間も寝室も畳敷で、奥には小さな台所と風呂場があり、台所の床の下には胡瓜やナスの漬物や梅酒の入った瓶が並んでいた。

よっぽど暑い日でない限り、祖母は昼のほとんどを縁側で過ごしていた。そこへ近所のおばさんたちがよく遊びに来て、お茶を飲んだりお菓子を食べたりしながら話に花を咲かせていた。ぼくも遊びに行くとよく縁側でゴロゴロしながら陽だまりの中で過ごした。そこがいちばん居心地のいい場所だったのだ。

 春になると祖母は庭から竹の子を掘って夕食に竹の子ごはんを作ってくれた。夏には梯子を出して柿をもぎ、起きたばかりのぼくに「はい、おめざよ」と言って、剥いた柿を食べさせてくれた。

ぼくが5歳ぐらいの時に2階建ての洋館に改築された我が家では、夏の夜になると家族全員でよく2階のベランダに出て、デッキチェアに寝そべって涼を取った。あの頃も夏は普通に蒸し暑かったけれど、エアコンの室外機はなかったし、辺りに高い塀もなかったので、風の通りが良く、夜が深まれば深まるほど過ごしやすくなった。

あの頃は辺りがいつも音で溢れていた。目の前の未舗装の道路をガタゴトと行き交う車やトラックのエンジン音。道で遊ぶ子供たちの叫び声。ギーコギーコと黒い自転車を漕ぎながら1日おきぐらいに辺りを巡回していたお巡りさん。道端で長話をする奥さんやおばさんたちの笑い声。リヤカーを引っ張って坂を登ってくる魚屋さんや八百屋さんや竿竹屋さんの掛け声。日曜日の朝にラッパを吹きながらやってくる豆腐屋さん。神社から微かに響く祭り太鼓。目の前を通り過ぎて行く神輿の掛け声や山車から流れるお神楽。裏の老夫婦の家のラジオからたまに流れてくる民謡や長唄。空気を埋め尽くすような蝉やコオロギの鳴き声。

 ぼくの母は近所の同世代のお母さんたちと「メンドリ会」というグループを作り、月一ぐらいの割合でそれぞれの家に集まってはお茶し、お互いの旦那の愚痴などで盛り上がっていた。近所の人々とは防犯組合のようなものも作られていて、メンバーの家はインターフォンで繋がっていた。次男のロニーが家で生まれた時はそんな近所の人たちが深夜にもかかわらず家に駆けつけ、お産婆さんのお手伝いなどをしてくれた。

 そう、あの頃の町にはと人と人との繋がりがあり、温もりのあるコミュニティーがあった。時には人間関係が面倒臭くなったりすることもあっただろうし、もっとプライバシーが欲しいと思うこともあっただろう。でも、良くも悪くも、そこは住民一人ひとりの顔が見える、風通しの良い、開けた町だった。

 そんな町がいつ頃から、今のような閉ざされた町に変わってしまったのだろう?

 答えは分かっている。変化は少しずつ、少しずつ、英語で言えばハウス・バイ・ハウス、
起こっていったのだ。

 家の裏の老夫婦の家はぼくが海外に行っている間に売却され、ぼくが帰国した時にはそこに庭のほとんどない、3軒の建売住宅が建っていた。桜が綺麗だった東隣の家も今は3軒の庭のない建売住宅になっている。家の目の前には以前、立派なお屋敷と広大な日本庭園があったが、30年ほど前に3階建てのマンションになった(そこの部屋の一つをぼくは今、持っているのだけど)。

 近くにあった家のほとんどは同じ運命を辿ったのだろうと思う。持ち主が年取って亡くなるか施設などに入居するかして、相続税など経済的な理由で家が売却され、土地は業者によって区分けされ、一軒だった家が3軒、4軒となり、庭はなくなり、垣根の代わりにコンクリートの塀などが作られる。または2軒、3軒あった家が売却され、その土地にマンションかアパートが建てられる。そんな感じで外に向かって開かれていた町はどんどん閉じられていった。

 これが時代の流れというものだから仕方がないことだとは思う。ぼくの祖母も両親も亡くなってしまったし、母のメンドリ会の仲間たちもほとんどもう近所にはいない。町はよく整備されているし、新しく建てられた家々も昔と比べるとずっと住み心地がいい家になっているのだろう。道で遊ぶ悪ガキたちの姿は消えてしまったが、町にはいくつも子供たちが遊べる公園がある。坂を降りていったところには人情味溢れる、昭和レトロな商店街がある。人の温もりを感じたければ、そこへ行けばいい。

 そういうことは分かっているのだけど、それでもぼくは昔の風通しの良い町が恋しい。だから自分が暮らす家だけでも、開けたところにしたいと思う。

新しい家には縁側を作るプランはないが、日溜りのある、庭に向かってオープンなリビング/ダイニングを作りたいと思う。外から人に家の中をジロジロと見られたくはないが、外界を遮断するような壁は作りたくない。それよりも、外から見たら緑豊かで明るい庭があって、その向こうに人の温もりに満ちた生活が感じられるような、そんな家を作りたい。

 自粛生活の中、妻と娘と生まれ育った町を散歩しながら、ぼくはそんなことを思った。
 


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